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オペラ・ブッファ「偽りのばか娘」 K.51 (K6.46a)La finta semplice序曲と3幕26曲 〔編成〕 2 fl, 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 vn, 2 va, bs 〔作曲〕 1768年4〜6月 ウィーン |
序曲(シンフォニア) Molto allegro ニ長調
第1幕
登場人物
歌手たちは、こんな歌は歌えないといい、オーケストラの連中は「子供に指揮されるのは好かない」といってごねた。 噂によれば、音楽は「三文の値打ちもない」もので、いずれにせよ、息子ではなくて父親が書いた、という話であった。 モーツァルトにとっての最大の災難は、ブルク劇場とケルントナートール劇場という宮廷の二つの劇場を借り受けて経営していたジュゼッペ・アフリージョが、さんざん書き直しをさせた末に、上演を完全にキャンセルし、さらにその上に、モーツァルトの作品は「劇場向きでない」という理由で作曲料の支払いを拒否したことであった。これに対してレオポルトはヨーゼフ2世に長文の「事件供述書」を提出し、具体的にどのように不当な妨害にあい、自分と息子の名誉が傷つけられたを書き残している。[ソロモン] p.124
これが、オペラを1曲書くというたいへんな骨折り(あの子が自分で書いたものは558ページにも達しています)や、失われた時間、それに無駄な出費に対して、愚息に与えられました報酬なのでありましょうか?しかし皇帝は動かなかった。[書簡全集 I] p.368
代って本件を取調べたのは劇場総監督のヨーハン・ヴェンツェル・スポルク伯爵で、彼は調査ののちレオポルトの請願を却下した。むしろ騒ぎを大きくし、皇帝と宮廷を巻き込もうとしたレオポルトの行動があとで尾を引くことになったようである。[ソロモン] pp.125-126
それは18世紀当時の音楽界の、オペラ界の陰謀渦巻くドロドロとした、おどろおどろの世界の縮図を私たちにあらわなかたちで示してくれるものである。このような状況で少年モーツァルトが書いた音楽は、7人の登場人物が以下のような役回りで劇が進行するもので、アインシュタインが「もしモーツァルトが10歳だけ成長していたら、こんなひどい支離滅裂なナンセンスに曲をつけるのを拒んだであろう」と呆れて言うほどのものである。
(中略)
私にはその後オペラ作家としてのモーツァルト、音楽家としてのモーツァルトを待ち受けている運命を暗示し、先取りしているものとして、はなはだ興味深く思えてならない。 モーツァルトはイタリアでも、パリでも、そして定住後のヴィーンでも、こうした反応に出会うことになるからである。[海老沢] p.189
ドン・カッサンドロ---クレモナ地方の裕福な領主、乱暴な無骨者、うぬぼれが強く欲ばりで、女ぎらいである。 彼の弟ドン・ポリドロを犬のように取り扱うが、ポリドロは全くの白痴なので、ともあれ不当なわけでもない。 彼らの妹ドンナ・ジャチンタはフラカッソに惚れている。 フラカッソはハンガリーの大尉で、領地に宿営している。 そして彼らの女中ニネッタはジャチンタにならってフラカッソの部下シモーネ軍曹に惚れている。 兄弟は二組の結婚に反対である。 彼らの反対にうち勝つために二組は、訪問することになっているフラカッソの妹ロジーナに頼んで、兄弟がともにロジーナに惚れこむようにしてもらい、それによって兄弟から結婚に対する同意を得ようとたくらむ。 ロジーナは『いつわりのばか』の仮面をかぶってやってのける。当時のオペラは、特にオペラ・ブッファの場合には、劇場所属の俳優の力量と性格に応じて作られ、お決まりの登場人物による即席茶番狂言と言ってもいいものだった。 だからこそ類型的な模範を手本にしながら、13歳の子供でしかなかったモーツァルトがこのようなオペラを作曲できたともいえる。[アインシュタイン] pp.532-533
われわれは12、3歳の子供だったモーツァルトが、オペラ・ブッファ『いつわりのばか娘』を書いたと聞くと、びっくりしてしまうが、オペラ・ブッファの歌手群は類型から成り立っていて、作曲家はこの類型に当てはめて書かなくてはならなかった。 それは性格喜劇からは遠い世界なのである。少年モーツァルトは器楽部以外のあらゆる面で拘束を受けているのであり、だからこそシンフォニア(序曲)がこのオペラ全曲の中で最も魅惑的な楽曲であるとアインシュタインは言う。 しかし、モーツァルトは当時のイタリアの作曲家たちと違って、ひとたび成熟すると、ナンセンス劇には満足しなくなった。 また、アインシュタインは原作に手を加えた作家コルテリーニについては次のように酷評している。[アインシュタイン] p.530
リブレットはゴルドーニの作品であって、1764年にサルヴァドーレ・ペリルロの音楽によってヴェネツィアではじめて舞台にのせられたものである。 原作のリブレットは当時無名で公けにされていた。オペラ自体は不成功で、ヴェネツィアより先へはひろまらなかった。 こういうわけで、コルテルリーニが当時の帝室劇場請負人アフリシオ(彼は全くのならず者だった)と了解のもとに、他人の功を奪ったということは大いにありうることである。 彼は2、3のアリアを新しいものと取り替えたにすぎない。 そして僅かに第3幕だけはややうまく改作しており、ことにフィナーレは大いに新しく仕上げいるから、 ゴルドーニと並べて自分の名前をなのる権利は少しは持つであろう。このオペラの作曲に着手し、上演を実現させる(実際はできなかったが)までにかかった日数と労力はたいへんなものであったので、モーツァルト一家がザルツブルクに帰郷するのはかなり遅れて1年4ケ月ぶりの1769年1月5日になった。 このあまりに遅い帰郷のためレオポルトの俸給は1768年3月から停止されていた。 彼は差し止め解除を大司教に請願することになる。[アインシュタイン] p.532
1769年3月この請願は承認され、1769年1月分から俸給が支給されたという。
数け月お差し止めの俸給支払い復活につきましてご承認下さいますよう、恐れながら請願申し上げます。
大司教猊下におかせられましては、先ごろ私が家族とともになお数か月ヴィーンに滞在することをお許しくださいましたが、また帰着いたしますまで私の俸給を差し止めるようお命じになりました。 しかしながら、このヴィーン滞留は私の意に反するものであり、かつ私の不利益となるものでありましたため、私は自分および愚息の名誉を守るためにも、より早くヴィーンを立ち去ることができませんでした。[書簡全集 II] pp.13-14
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初演は1769年5月1日にザルツブルク宮廷で行われた。
この日はジギスムント(大司教の名前)の霊名の祝日であることから伝記家ヤーンが推定したものであるが、その後の研究により大司教はハライン(ザルツブルク州の第2の都市)に滞在していたので、この推定には疑問があるといわれている。
そのときの配役は
関連
〔動画〕
交響曲 「見てくれのばか娘」ニ長調
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オペラの序曲として、シンフォニー第7番 ニ長調(K.45)を改編した。 その際、第3楽章メヌエットを落とし、楽器編成ではトランペットとティンパニをはずし、フルートとファゴットを加えたが、もちろんそれだけではない。 ザスローによれば
改作された交響曲にかなりたくさんのフレージングやデュナーミク記号を書き加え、併せてリズムやピッチを若干変更した。 アンダンテでは、彼は拍子を4/4から2/2へと変え、メロディの8分音符を8分音符と16分音符に変えている。 最後に、彼は第1楽章に2小節、フィナーレに4小節を書き加えた。 一方、フィナーレでは2つの部分の反復が省略され、エンディングが変更されている。[全作品事典] p.217
〔演奏〕
CD [[ポリドール FOOL-20362] t=6'16 ホグウッド指揮 Christopher Hogwood (cond), エンシェント室内管弦楽団 Academy of Ancient Music |
〔動画〕
〔参考文献〕
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