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オラトリオ「救われたベトゥーリア」 K.118 (74c)

La Betulia Liberata
〔編成〕 2 ob, 2 fg, 4 hr, 2 tp, 2 vn, va, vc, bs
〔作曲〕 1771年3月から夏にかけて ザルツブルク

序曲と以下の2部16曲から成る宗教劇。 物語は旧約聖書ユディットの書からとられ、それをもとに台本はメタスタージョがイタリア語で脚色したもの。 最初のイタリア旅行の帰途、1771年3月パドヴァでアラゴーナ大公ジュゼッペ・ヒメネス(Giuseppe Ximenes d'Aragona, 1718-84)から注文を受けた。

1771年3月14日、ヴィチェンツァのレオポルトからザルツブルクの妻へ
あの子は仕事もひとつもらいました。 パドーヴァのためにオラトリオを1曲書かなければならないからで、これは折を見てやることができます。
[書簡全集 II] p.266
ザルツブルクに帰郷し、少年モーツァルトはさっそく作曲に取りかかったことだろう。 7月に作曲中であることが父レオポルトがボローニャの貴族へ宛てた手紙で知られている。
1771年7月19日
愚息は、アラゴーナ公ドン・ジュゼッペ・ヒメネスさまの命により、パードヴァのためにメタスタージョのオラトリオを1曲作曲しております。 このオラトリオをヴェローナ経由でパドーヴァに送り、写譜いたさせまして、ミラノからの帰路、パードヴァに参り、この曲の試演を聴きます。
同書 p.273
完成の時期は、8月13日に父子は第2回イタリア旅行に出るので、その前には仕上がっていたと思われる。 ただし、上演されたかどうかについてはわからない。 これだけの大作だから上演されればレオポルトは黙っていられなかったはずであり、逆に完全な沈黙からレオポルトとしては黙殺したい事情があったのか。
これが、果たしてパドヴァにおいて1772年の四旬節に歌われたのか、また、そもそもいつか歌われたことがあったのかもたしかでない。
[アインシュタイン] p.524
なんらかの事情によりパドヴァでの上演に成功しなかったとする説もある。 その年(1771年)にパドヴァで上演されたのは、その地の作曲家ジュゼッペ・カレガーリによる「救われたベトゥーリア」であったという。 モーツァルトの曲については、この時代の記録がまったくなく、裏付け資料となる数多くの手紙にもいっさい書かれていないのが謎である。 イタリアでは上演されず、1775年5月にミュンヘンで上演されたともいう。 宗教音楽に詳しいド・ニはイタリアで上演された記録がないことに「非常にいぶかしく思われる」と述べている。 この「不可解な謎」は今も解けていない。 アンガーミュラーは次のように語っている。
ヒメネスは自邸で音楽会を催すのが常であり、パドヴァの音楽生活の中で重要な人物であった。 もしモーツァルトが1771年の聖週間までに作品を仕上げていれば、ヒメネスならば当然この作品を好んだであろう。 しかしモーツァルトはパドヴァからザルツブルクに帰郷する間、すなわち1771年3月14日から28日の間、筆をすすめなかったようである。 このことから、おそらくモーツァルトは1771年の夏、ザルツブルクに帰郷した後に『救われたベトゥーリア』を作曲したであろうと結論づけられる。 モーツァルトがその楽譜をパドヴァに送付したかどうかはわからない。 同じく不可解なことに同時代の記録も、この作品が演奏されたかどうかについて何も語らないのである。 明らかなことは、パドヴァの作曲家ジュゼッペ・カレガーリ作の『救われたベトゥーリア』が1771年に同地で上演されていることである。 モーツァルトの付曲がどうしても受け入れ難かったか、あるいはあまりにも遅く届いたので、カレガーリの音楽が代わりに演奏されたのかもしれない。
[全作品事典] p.50
謎解きが知られざる資料の新発見などでいつの日か明らかにされることを楽しみに待ちたい。

オラトリオの伝統に従って、作品は2部に分けられ、各曲は劇の進展を語るレチタティーヴォでつながる。 ド・ニによれば、

18世紀中に28人もの作曲家が、この素晴らしい「ベトゥーリア」の台本を使って作曲したという。 ところが、オラトリオの大家といわれていたハッセは書いていない。 そういえばこのハッセも、ミラノではモーツァルトの競争相手であった。 というのはフェルディナンド大公の結婚式の祝賀用に、「ルッジエロ」〔これもやはりメタスタージョの台本〕の作曲依頼されていたからである。 レオポルトはオラトリオの注文を受けたときに、すでにそのことを知っていた。 だからこそ自分の息子に同じ作家の台本である「ベトゥーリア」を作曲させようとしたのだと思えなくもない。
[ド・ニ] pp.72-73
そしてその期待にこたえて書かれたヴォルフガングの作品は総譜は200ページを越え、オペラに匹敵する大作であり、15歳の子供の作とは思えないほどの傑作である。 一方で、イギリスのもう一人のオラトリオの大家であったヘンデルもメタスタージョこの台本を使っていないことに、アインシュタインは
帝室詩人メタスタジオがカトリック信徒でなかったとしても、ヘンデルはこのオラトリオ詩人を用いることはできなかったであろう。 ヘンデルは、素材の点で非常に身近であり、またよく知っていたにちがいない『解放されたベトゥーリア』を、おそらくさげすみあざけっただけであろう。
[アインシュタイン] p.525
と評しているが、もしそうだとするなら、レオポルトの選択は失敗だったということになる。 しかし、ド・ニは「この曲は、もはや伝統的な意味でのオラトリオではない」と高く評価している。
時代的あるいは様式的な諸要素(それらにまったく問題がないわけではないが)を、彼なりにまとめあげて傑作「ベトゥーリア」を作曲したのである。
まず序曲からして、宗教的なオラトリオと世俗オペラとは異なる『ドン・ジョヴァンニ』を別とすれば、これはモーツァルトが書いた唯一の短調の序曲である。
[ド・ニ] pp.74-75

ホロフェルネスの首を持つユディット
1530年 ルーカス・クラナッハ作
ウィーン美術館
この宗教劇の内容は、イスラエルの町ベトゥーリアに住む若く美しい寡婦ユディットが、町を包囲したアッシリア人の大将ホロフェルネスを策略にかけて殺し、住民を救うという旧約聖書中の物語りであるが、メタスタージョは主題を変えて、登場人物の一人アキオールに重要な役割を与えることによって、四旬節の間にも演奏できるようにした。 この期間中は世俗的なオペラの上演は禁止されていたが、信徒の回心(悔い改めること)を目的とするオラトリオの演奏は認められていたので、メタスタージョは誰でも知っている故事を表面に出さない工夫をしたのである。 登場人物は であるが、少年モーツァルトはさらに独自の工夫をほどこした。 つまり、劇の中心人物であるジュディッタに対して、その謙虚な性格を反映させるべく、アルトの声域を与えたのである。 その結果、オペラ的な華麗さはソプラノのアミタール役となった。 ただし少年モーツァルトはこの物語は「アキオルの回心の歴史であり、人間の営みにおける神の介在の物語である」(ド・ニ)ことを理解していた。 オツィーアは、唯一の神ヤーヴェへの真の信仰を語って、アキオールを回心させようとするが、オツィーアの雄弁は何の役にも立たず、ジュディッタ(ユディット)の気高い行為によって、初めてアキオールは回心する。
神に対する信仰は理屈によって示されるのではなく、信じられないような出来事を、疑う余地なく目撃したことによってのみ、得られるのである。 だからアインシュタインがこのオラトリオ攻撃の主眼としている、ユディットの「譬えのアリア」といわれる「戻ってきた囚人」は、台本の流れのなかで物語の筋と矛盾することはなく、劇の内容から見てもまた音楽的に見ても、オラトリオ全体のなかで重要な部分となっているのである。
[ド・ニ] pp.73-74
なんとアインシュタインはこのアリアを「悪評高い」と評していた。 その「信じられないような出来事」とは、第1部で花嫁のように着飾ったユディットがベトゥーリアを立ち去り、第2部では戻って来た彼女が暴君の首を切り落としたと歌うのに対して、アキオールが信じようとしないので、袋の中から血まみれの首を出して見せる場面のことである。 このような筋書きの劇であるので、ド・ニは「だからこの台本のタイトルは『アキオルの回心』とでもしたほうが、その性格をもっとよく表していたのではないか」と言っている。 劇は、序曲についで以下のような曲で構成されている。

■第1部

  1. オツィーアのレチタティーヴォ「ベトゥーリアの民よ」
    Recitativo (ozia) : Popoli di Betulia
    オツィーアのアリア「すべてのあやまちのなかで最大なのは」 Allegro aperto 変ロ長調
    Aria (Ozia) : D'ogni colpa la colpa maggiore
  2. カーブリ、アミタールのレチタティーヴォ「して、どんな望みがあるのでしょう?」
    Recitativo (Cabri, Amital) : E in che sperar?
    カーブリのアリア「だが、どんな勇気がくじけぬのだろう」 Moderato ト短調
    Aria (Cabri) : Ma qual virtù non cede
  3. オーツィア、カーブリ、アミタールのレチタティーヴォ「それでは昔の思い出はもう忘れ去られてしまったのか?」
    Recitativo (Ozia, Cabri, Amital) : Già le memorie antiche dunque andaro in oblio?
    アミタールのアリア「あなたは心をお持ちではないのです」 Allegro 変ホ長調
    Aria (Amital) : Non hai cor
  4. オーツィア、アミタールのレチタティーヴォ「では、私たちの神の敵であり、掟も信仰ももたぬ軍勢から」
    Recitativo (Ozia, Amital) : E qual pace sperate da gente senza legge e senza fede
    合唱付きオーツィアのアリア「もしお怒りでしたら、お憐れみを」 Adagio ハ短調
    Aria con Coro (Ozia) : Pietà, se irato sei
  5. カーブリ、アミタール、オツィーア、ジュディッタのレチタティーヴォ「生まれ出る曙のように」
    Recitativo (Cabri, Amital, Ozia, Giuditta) : Chi è costei
    ジュディッタのアリア「川の岸辺は、同じように不毛です」 Andante ヘ長調
    Aria (Giuditta) : Del pari infeconda d'un fiume è la sponda
  6. オツィーア、カーブリ、ジュディッタのレチタティーヴォ「ああ、かしこくも、ああ、気高く、すぐれた女性よ!」
    Recitativo (Ozia, Cabri, Giuditta) : Oh saggia, oh santa, oh eccelsa donna!
    合唱付きオツィーアのアリア「もしお怒りでしたら、お憐れみを」 Adagio ハ短調
    Aria con Coro (Ozia) : Pietà, se irato sei
  7. カーブリ、アミタール、オツィーア、カルミ、アキオールのレチタティーヴォ「陛下よ、カルミがあなたのところにやってきます」
    Recitativo (Cabri, Amital, Ozia, Carmi, Achior) : Signor, Carmi a te viene
    アキオールのアリア「容貌はおそろしく」 Allegro ハ長調
    Aria (Achior) : Terribile d'aspetto
  8. レチタティーヴォ「元気をお出しなさい、アキオール」
    Recitativo : Ti consola, Achior
    ジュディッタのアリア「武器ももたずに私は行くが、恐れはしない」 Allegro ト長調
    Aria (Giuditta) : Parto inerme, e non pavento
  9. 合唱「ああ、驚くべきことだ! ああ、唖然たることだ!」 Allegro 変ホ長調
    Coro : Oh prodigio! Oh stupor!
■第2部
  1. アキオール、オツィーアのレチタティーヴォ「私たちの神々をこのように軽蔑してみせるとは」
    Recitativo (Achior, Ozia) : Troppo mal corrisponde
    オツィーアのアリア「もしあなたが神を見たいのなら」 Andante イ長調
    Aria (Ozia) : Se Dio veder tu vuoi
  2. アキオール、オツィーア、アミタールのレチタティーヴォ「私には分からなくなってしまった」
    Recitativo (Achior, Ozia, Amital) : Confuso io son
    アミタルのアリア「大嵐の中にあって」 Allegro 変ロ長調
    Aria (Amital) : Quel nocchier che in gran procella
  3. レチタティーヴォ「激しすぎる苦しみは長くは続かない」
    Recitativo : Lungamente non dura
    ジュディッタのアリア「囚人が恐ろしい場所から」 Adagio ニ長調
    Aria (Giuditta) : Prigioner che fa ritorno
  4. アキオールのレチタティーヴォ「ジュディッタよ、オツィーアよ、民衆たちよ、友よ」
    Recitativo (Achior) : Giuditta, Ozia, popoli, amici
    アキオールのアリア「あなただけを私はあがめる」 Andante ヘ長調
    Aria (Achior) : Te solo adora
  5. オツィーア、アミタールのレチタティーヴォ「そなたの勝利の輝かしい結末をごらん」
    Recitativo (Ozia, Amital) : Di tua vittoria un glorioso effetto vedi
    アミタルのアリア「あまりにも罪深い卑怯さで」 Andante ホ長調
    Aria (Amital) : Con troppo rea viltà
  6. レチタティーヴォ「あなたはなんと私どものことを心配して下さっておられるのでしょう」
    Recitativo (Cabri, Carmi, Ozia, Amital) : Quanta cura hai di noi
    カルミのアリア「お聞き、あの騒ぎは」 Allegro ヘ短調
    Aria (Carmi) : Quei moti che senti
  7. レチタティーヴォ「おお、カルミよ、敗走する者たちのあとを追わせよ」
    Recitativo (Ozia, Amital, Cabri, Achior, Giuditta) : Seguansi, o Carmi, i fuggitivi
    合唱「偉大なる神をほめたたえよう」 Andante
    Coro : Lodi al gran Dio
    海老沢敏訳 CD[UCCP-4061/70]

緊迫感に満ちた序曲や、第4曲(第6曲と同じ)のオツィーアの合唱付きアリア「もしお怒りでしたら、お憐れみを」(ハ短調)の深々とした旋律は天才をもってしなければ書けないものであろう。 そのアリアについては、ド・ニは「一度聴けばもはや忘れることができない」と評価し、さらに、「その前のアキオルのアリアは、ヘンデルそのものといった威厳に満ちた、宗教音楽には珍しい壮大で深みのある表現力を見せている」と絶賛している。 このような革命的とも言える斬新なオラトリオだったからこそ、当時演奏されなかったか、あるいは演奏されても評判があまり良くなかったということも考えられる。

のちに、ウィーンで独立したモーツァルトがこの作品を改訂して使おうとしたが実現しなかった。 それはザルツブルクの姉へ宛てた手紙の中で次のように父に頼んでもらいたいと書いていることで知られている。

1784年7月21日
もし、昔のオラトリオ『救われたベトゥーリア』も一緒に送ってもらえると、たいへんありがたいのですが。 当地の協会のために、このオラトリオを書かなくてはなりません。 おそらく、あちこち、まだそれぞれ使えると思います。
[書簡全集 V] p.517
モーツァルトが求めた楽譜がザルツブルクからウィーンに届けられたのかどうかわからない。 しかし、そもそも音楽芸術家協会の演奏会用に改訂しようとした彼の考えについて、アインシュタインは否定的である。
1784年になっても父親に、総譜をヴィーンの彼のもとへ送ってくれるように頼んでいるが、このテクストを音楽家組合のために作曲しなければならないので、おそらく若いときの作品のなかの楽曲の一、二がまだ使えるだろうから、というのである。 さらに彼は当時この作品のためにもう一つの導入合唱曲と一つの五重唱曲を作曲したといわれている。 しかしわたしはこれを信じない。 なぜなら1784年頃ならば、このテクストが全体としても一部分を取るにしても、もう一度彼が作曲しうるようなものではないことは、モーツァルトにはちょっと考えただけでもわかったはずだからである。
[アインシュタイン] p.524
一方、ド・ニはまったく正反対の評価をしている。
少年時代の彼の作品のなかでは宗教音楽が大きな位置を占めているが、この「ベトゥーリア」における数曲に匹敵するほどの、完全ともいえる高みに達したものはあまり存在しない。 このことはウィーン時代の1784年7月21日付けの彼自身の手紙によって確認できる。 すでに彼はそれまでにピアノ・コンチェルトの大作、ハ短調ミサ(K.427)、あるいは大規模なオペラなどを作曲していたが、そのころでも若い時代に書いたベトゥーリアのなかの数曲は、真の傑作の名に恥じないと自ら十分に知っていたようである。
[ド・ニ] p.79
どちらの評価が正しいかは、実際に作品を聴くのが一番であろう。

その後、このオラトリオに関する消息はなくなる。1786年4月12日にレオポルトが娘ナンネルに宛てた手紙で「愛好家コンサートの聖楽演奏会で、マルガレーテ・マルシャンは『救われたベツリアの町』の主役ジュディッタの役を歌います」と書いているが、それはモーツァルトの曲なのか、それとも別人の作曲になるものかわかっていない。

なお、モーツァルトとメタスタージョの直接の出会いは1768年(モーツァルト12歳)にウィーンにおいてあったことが父レオポルトが7月30日にウィーンで書いた手紙によって知られている。 それによると、モーツァルトの天才を疑う人々に対して、レオポルトはメタスタージョの作品集からアリアを一つ息子ヴォルフガングの前に置いて、その場で即座に多くの楽器の伴奏を付けた曲を何のためらいもなく素早く書き上げるところを見せたという。

〔演奏〕
CD [UCCP-4061/70] t=66'54
シュライアー (T), コトルバス (S), ベリー (B), 他, ハーガー指揮ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団
1778年1月、ザルツブルク
CD [DENON COCQ 84144-5] t=145'38
パラシオ Ernesto Palacio (Ozia, T), バンディテッリ Gloria Banditelli (Giuditta, MS), サロマー Petteri Salomas (Achior, Br), 他, パドヴァ・セントロ・ディ・ムジカ・アンティカ合唱団 Coro del Centro di Musica di Padova, マーク指揮 Peter Maag (cond), パドヴァ・ヴェネト室内管弦楽団 Orchestra da Camera di Padova e del Veneto
1991年6月、パドヴァ
CD [RCA BVCC-715] (12)t=9'48, (8)t=6'52
シュトゥッツマン Nathalie Stutzmann (contralto), スピヴァコフ指揮 Vladimir Spivakov (cond), モスクワ・ヴィルトーゾ室内管弦楽団 Moscow Virtuosi
1994年7月、ノイマルクト

〔動画〕


 

交響曲「救われたベトゥーリア」 ニ短調

Symphony "La Betulia liberata"
  1. Allegro
  2. Andante
  3. Presto
〔編成〕 2 ob, 2 fg, 4 hr, 3 tp, 2 vn, va, bs
〔作曲〕 1782年? ウィーン

オラトリオ「救われたベトゥーリア」の序曲を急・緩・急のイタリア式シンフォニーとしたもの。 2年前のシンフォニー群の単純簡素な作に比べて、ドラマチックな迫力は成人後の作品に迫る。

この壮大なオーケストレーションの特徴についても、言及しないわけにはいかない。 2本のトランペット、オーボエ、ファゴット、それに弦楽器、オルガンの通奏低音に4本のホルンが加わる。 中間部のアンダンテでは金管楽器は用いられないかわりに、心にしみ入るようなオーボエとファゴットのオブリガートによる、コンチェルタントな書き方となっている。 終結部は弦楽器と全オーケストラによるトゥッティとのコントラストで、非常に素晴らしい効果を醸し出している。
[ド・ニ] p.75

序曲に見られる疾風怒濤の動機は、カール・フィリップ・バッハの「フルート協奏曲 イ短調」第1楽章の出だしに通じるものがあるように感じる。

〔演奏〕
CD [ポリドール FOOL-20364] t=3'47
ホグウット指揮 Christopher Hogwood (cond), エンシェント室内管弦楽団 Academy of Ancient Music
1979年頃、ロンドン

〔動画〕

聴き比べ  

〔参考文献〕


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2014/06/15
Mozart con grazia