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ミサ曲 第16番 ハ短調 K.427 (417a) 未完
〔作曲〕 1782年秋〜83年春 ウィーン |
ウィーン時代唯一の、ミサ通常文 Ordinarium に基づくこの作品は、コンスタンツェとの結婚(1782年8月4日)後に、妻を連れてザルツブルクへ行く際、この曲を持って行き、故郷の教会に奉献しようと考えて作られた。 ただし、結婚が延び、種々の事情でザルツブルクへ行けず、作曲は完成しなかった。
1783年1月4日、ウィーンからザルツブルクの父へまた、新妻の晴れ姿を故郷の父と姉に披露する目的もあった。 妻コンスタンツェの歌唱力について、ド・ニは「美しいソプラノの声をもっていた。 声楽や音楽の才能については確かな資料が残っている」と評価しているが、一方で、彼女の練習ために「ソルフェージ」(K.393)が書かれたことなどを考えると、はたして上手な歌手だったのか疑問である。 なお、その練習曲の第2番はこのミサ曲の「クリステ・エレイソン Christe, eleison(キリストよ、あわれみたまえ)」に似ているといわれる。
ぼくは心をこめて真剣に誓約しましたし、本当にそれを守りたいと願っています。 ぼくが誓約したとき、妻はまだ体の調子がよくありませんでした。 でも、彼女が元気になったらすぐにぼくは結婚しようと固く決意していましたから、誓約を立てるのはたやすいことでした。 しかし、お分かりのように、時間がなかったり、状況が悪かったりで、ぼくらは旅行することができませんでした。 でも、ミサ曲の半分の楽譜は、ぼくが本当に誓約をしたまぎれもない証拠であり、完成を待っていまここにあります。[書簡全集 V] pp.322-323
自筆譜は「魔笛」と「ジュピター交響曲」などの楽譜とともに、1977年ポーランドのクラクフのヤギエロン図書館に保管されていたことが分かった。 それをもとにこの「ハ短調ミサ」のファクシミリ版が1982年に刊行された。 クレドの「クルチフィクス Crucifixus」以下と「アニュス・デイ Agnus dei」全部が欠けて未完のまま。 作曲はモーツァルトがザルツブルクに着いてからも続いた(タイソン)というが、なぜか未完成に終わった。 そのせいか、モーツァルトはこの曲を自作目録に載せていない。 しかしこの作品の価値は非常に高く評価され、惜しまれている。
このトルソーはそれのみで燦然と輝く。 作品の背後に感じられるものはバッハのみにとどまらず、18世紀全体だろう。 モーツァルトは彼の世紀を総括し、その音楽言語を変容させた。[アインシュタイン] pp.471-472
自筆原稿の失われた部分がいつか日の目を見ることがないかぎり、いくつかの重要な謎は未解決のまま放置されることになるのだろうが、この曲がバッハのロ短調ミサ曲(BWV232)とベートーヴェンのニ長調ミサ曲(作品123)の中間にあって、音楽の記念碑的存在であることを考えると何とも残念でならない。作曲者自身にそのような意識があったのだろうか。 アルフレート・ボージャンは次のように言っている。[ド・ニ] pp.107-108
モーツァルトは、1781年5月にザルツブルク大司教宮廷の職を辞し、教会音楽を書く義務からも解き放たれたのだったが、1782年夏、知られるかぎりいかなる外的な動機付けをもつことなく大規模なミサ曲を作曲し始めた。 こうした状況を、よく引き合いに出される、結婚にまつわる誓いの成就という観点から完全に説明することはできない。ド・ニが言う「迷子石」のような存在のこのミサ曲の最大の謎は作曲の動機と未完に終わった理由の両方を納得のゆく形で説明することだろう。
(中略)
結婚問題と誓願以上に影響力のあるものは、バッハ作品との出会いから生じた作曲上の危機だったかもしれない。[全作品事典] pp.30-31
この作品の時期は、モーツァルトがフリーメイスンに関心を持ちはじめた頃に当る。 またそれはモーツァルトの創造の危機時代、すなわち1782年と1784年のあいだに当る。 この時代以上にフラグメントが多数に書き残された時代はない。この曲が「モーツァルトが注文を受けないで作曲し、また特定の典礼の機会を目的としていない唯一のミサ曲」であること、そのことがまさに未完に終わった原因を探る糸口であるとド・ニは考えている。[アインシュタイン] p.194
現実に行なわれる典礼にふさわしくない規模(バッハのロ短調のミサ曲もそうであるが、それはバッハにとって往古の音楽形式であるミサという形式を使って、知識や技術を結集して作曲した、理論的な作品にすぎない)のために、モーツァルトは意気阻喪してしまったのではないか。 大規模な曲で演奏がむずかしいために、途中で放棄した曲は他にもある。簡単に言えば、注文品でなく、一銭の儲けにもならない作品を大きく作りすぎてるうちに面倒くさくなってやめたということだろうか。 モーツァルトはさっさと約束の演奏を片付けてザルツブルクから離れたい(長居しすぎてコロレド大司教に逮捕されたくない)という単純な気持ちでいっぱいになっていただけなのかもしれない。[ド・ニ] p.110
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1783年10月、姉ナンネルは日記に「23日。 8時にミサ。 聖歌隊員養成所で、弟のミサ曲の練習。 このミサ曲では義姉がソロを歌う」と記している。 そして初演が10月26日、ザルツブルクの聖ペテロ教会でおこなわれた。 未完により、足りない部分は他のミサ曲から借用したという。 ナンネルの日記に「26日、聖ペテロ教会でヴォルフガングが自作のミサ曲を指揮した。 宮廷楽団全員が参加した」とあるが、実際にコンスタンツェが歌ったかどうかは不明。 なお、この教会の墓地には、1829年にザルツブルクで78歳の生涯を終えたナンネルが眠っている。
モーツァルト一家はベネディクト派に属していて、父レオポルトは同派の聖ペテロ教会と密接な関係にあったという。 また、大司教の直轄の大修道院でなかったことから、モーツァルトは意識的にこの教会を演奏場所に選んだのではないかといわれている。
聖ペテロ教会が、ザルツブルク宮廷寺院に張り合っていた存在ならば、モーツァルトにとっては大司教にしっぺ返しするにはもってこいであり、さらにその教会の楽師だけでは不足する楽員を宮廷楽団からの応援も得て、10月26日の日曜日モーツァルトはミサをあげて(新妻にも歌わせて?)、そして翌日さっさとザルツブルクをたった。 してやったりと、ガッツポーズをとるモーツァルトの姿が目に浮かぶほどである。 この大胆不適な行動に対して苦々しく思ったのはひとり大司教だけでなく、父レオポルトも同様だったのではないだろうか。
1785年3月、四旬節中のウィーン音楽芸術家協会の演奏会のために、キリエとグローリアを転用してカンタータ「悔悟するダヴィデ」(K.469)に編曲した。 テクストはラテン語からイタリア語に変ったが、その作者は不明。
未完に終っただけでなく、サンクトゥスでは管楽器とティンパニ以外のパートの自筆譜が消失し、写譜が残るだけのため、声部の復元などに関して、『レクイエム』と同じく、様々な解釈による版がある。
〔演奏〕
CD [TELDEC 30P2-2226] t=55'22 (エーダー版) ラキ Krisztina Laki (S), デーネシュ Zsuzsanna Denes (S), エクヴィルツ Kurt Equiluz (T), ホル Robert Holl (B), ウィーン国立歌劇場Cho, アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス 1984年10月、※合唱の復元と管弦楽の補筆はフランツ・バイヤーによる。 |
CD [POCL-1014] t=51'11 (モンダー版) オジェー Arleen Auger (S), ドーソン Lynne Dawson (S), エインズレイ John Mark Ainsley (T), トーマス David Thomas (B), ホグウッド指揮ウインチェスター・カテドラルCho 1988年11月、※リチャード・モンダー氏の詳しい解説(永田美穂氏訳)がある。 |
CD [KKCC-162] t=54'25 (エーダー版) エルゼ Christiane Oelze (S), ラーモア Jennifer Larmore (S), ワイヤー Scot Weir (T), クーイ Peter Kooy (B), コレギウム・ヴォカーレ, シャペル・ロワイヤル, ヘレヴェッレ指揮シャンゼリゼO 1991年9月 |
LD [PHILIPS PHLP-9048] t=55'57 (シュミット版) ボニー Barbara Bonney (S), フォン・オッター Anne Sofie von Otter (Ms), ジョンソン Anthony Rolfe Johnson (T), マイルズ Alastair Miles (Bs), モンテヴェルディCho, ガーディナー指揮イギリス・バロック管弦楽団 1991年12月5日、※没後200年を記念してバロセロナのカタルーニヤ音楽堂で行なわれたライブ。 |
CD [POCL-2665] (1) t=6'54 オージェ (S), ホグウッド指揮ウインチェスター・カテドラルCho |
〔動画〕
第6版から上記のように、ハ短調ミサ曲 K.427 のための6曲のスケッチと断片として集められている。
カッコ内の番号はそれ以前に付けられていたもので、したがってばらばらに位置していた。
なお、第6曲の自筆譜の裏に「クラヴィアのためのフーガ K.375h」が書かれてある。
〔参考文献〕
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