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キリエ ニ短調 K.341 (368a)

〔編成〕 SATB, 2 fl, 2 ob, 2 cl, 2 fg, 4 hr, 2 tp, timp, 2 vn, 2 va, bs, og
〔作曲〕 1787年〜91年 ウィーン

アンダンテ・マエストーソ、119小節。 自筆譜ない。

この曲の自筆譜は久しく行方を晦ましている(従って用紙の透かしなどを吟味することはできない)。 この曲が私たちに知られているのは、ライプツィヒの音楽家A・E・ミュラーによる写譜(ベルリーン国立図書館所蔵)と、1825年頃J・A・アンドレーから自筆譜をもとに出版された総譜の初版によってである。
[ランドン2] p.74
作曲の時期だけでなく、その動機も不明。 ヤーンは1780年11月〜81年3月ミュンヘンでの作品とし、そのため「ミュンヘンのキリエ」と呼ばれていた。 アインシュタインも『イドメネオ』上演中の1781年初頭にミュンヘンで書かれたと考えていた。
モーツァルトのザルツブルクでの勤務中の最後の(しかしもはやザルツブルクで書いたのでない)作品は、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン4、トランペット、ティンパニ、弦楽器群(ヴィオラを含む!)およびオルガンに伴奏される、四声のためのキュリエ(K.341)である。 クラリネットとヴィオラだけでもすでに、この曲がザルツブルクで、ザルツブルクのために成立したという仮定を不可能にする。 この曲は『イドメネオ』(K.366)上演中の1781年初頭に、ミュンヘンのために書かれたものである。
[アインシュタイン] pp.467-468
しかし現在はもっとあとのウィーン時代のものと考えられている。
1780年代のある時、多分その終りの頃、モーツァルトはすばらしいキリエK341を書いた。 これには彼の生涯の教会音楽の中で最大の編成が使われているが、独唱者はいない。 このキリエには巨大な力があり、ニ短調という調性は、のちに『レクイエム』でもう一度めぐりあうものである。
[ランドン1] p.51
ただし、この曲は作曲者自身が1784年2月から作り始めた「自作全作品目録」に記載されていない。 気の置けない友人たちとの悪ふざけから生れたカノンが多数記載されているのを見ると、この曲がなぜ漏れているのか謎であるが。

話は前後するが、従来は次のように推測されていた。 1780年秋、ザルツブルクを抜け出す機会を待っていたモーツァルトに、ミュンヘンの選帝侯カール・テオドールからオペラの作曲が依頼された。 翌年の謝肉祭のオペラ『クレタ王イドメネオ』であり、11月にモーツァルトは大喜びでミュンヘンに向った。 ザルツブルクを離れた彼は再び父と手紙をやりとりするようになるが、11月13日の手紙の追伸に次のことが書かれている。

ぼくが持っている二つのミサ曲の総譜を送ってもらえませんか。 それから変ロ長調のミサ曲も。 というのは、ゼーアウ伯爵が近くそれらの曲について、選帝侯に話をされるそうです。 宗教曲の様式でも、みんながぼくのことを知ってほしいと思います。 グルーアのミサ曲を初めて聴きました。 この種のたぐいなら、一日に半ダースだって作曲できますよ。
[書簡全集 IV] p.449
ここに書かれているミサ曲とは、K.317(ハ長調)、K.337(ハ長調)、K.275(変ロ長調)と思われている。 グルーア(Francesco de Paula Grua, 1754-1833)は当時、マンハイム宮廷楽団の楽長助手であり、1784年に楽長となった作曲家であるが、モーツァルトは彼よりはるかに高い力量を見せ付けるいい機会だと考えたのであろう。 ここで、アインシュタインは次のように推測したのである。
ザルツブルク向きに作った作品がミュンヘンのためには不十分だと思ったので、疑いもなく『イドメネオ』の完成と上演以後に、新しいミサ曲のこの第一楽章を見本として書いたのである。
[アインシュタイン] p.468
この作品にかけるモーツァルトの意気込みが大規模な楽器編成に現れていると見ることができる。 辻褄の合う推測であり、従来はこのよう説明されていた。 しかし、自筆譜がないため詳しい検証ができず、かわって、タイソンはモーツァルトが1788年頃に書き残したいくつかのキリエのスケッチから推測し、この曲について1787年12月〜89年2月の成立という説を唱えた。 たとえば、ハ長調のキリエ K.323 の自筆譜がこの時期のものであることを考え合わせると、モーツァルトがこの種の作品を必要としていたようであり、そのように推測することは無理なことでない。 かつてはアインシュタインがいうように
ヴィーンにおいては、モーツァルトはもはや教会と教会音楽に関係する必要はなかった。 彼は一人の自由な芸術家であり、ソナタ、セレナーデ、ピアノ・コンチェルトおよびオペラを書くのである。 皇帝は彼を死の4年前に帝室作曲家に任命したものの、城内礼拝堂やシュテファン本寺のための作曲を彼には委嘱しなかった。
[アインシュタイン] p.469
とゆうのが定説であったが、このような「ウィーン時代のモーツァルトは教会音楽を書かなかった」という考えは現在は否定されている。 確かに、1787年12月、モーツァルトはグルックの死で空席となった宮廷作曲家のポストに就くことができたが、それは年俸800グルデンという薄給でダンス音楽を作る仕事であり、モーツァルトが真に求めていたものではなかった。 そんなとき聖シュテファン教会の楽長レオポルト・ホフマン(Leopold Hofmann, 1738-93, 右の写真 53歳)の病気が重大になっため、1791年4月にモーツァルトは補佐役として任用してもらえるようウィーン市参次会にみずから請願している。 最初ホフマンに拒絶されたが、5月に楽長補佐に任命される。 それは無給だったが、楽長の席は約束されていた。
特約条項がついており、楽長が死んでその席が空いたときには、遅かれ早かれモーツァルトが楽長に就任し、年俸2000グルデンを受け取ることになっていた。 従って、宮廷作曲家の給料を合わせると、その暁には彼は少なくとも年俸2800グルデンが保証されることになる。 彼の生活は安定するうえに、欲しかった『楽長』の称号も手に入る。 さらにハンガリーとオランダからの年収を加えたとすれば、彼の基本的な年収は4800グルデンにまでふくれ上がるところである。
[ソロモン] p.724
このくらいの計算はモーツァルトには簡単なことであり、彼の才能からして夢のような話ではなかった。 近い将来ホフマンは病死し、モーツァルトは目的を達成できるはずだった。 教会音楽は幼い頃から慣れ親しんでいる分野でもある。
聖シュテファン大聖堂での彼の新しい役職を祝うために大規模な『ミサ・ソレムニス ニ短調』を作曲しようと考え、ホーフマンが回復する前に『キリエ』を完成した、と見る方がずっとありうるように思われる。
[ランドン2] p.75
ところが皮肉にもホフマンは回復し、1793年3月まで生き延びることになる。 彼はモーツァルトが自分の死を待ち構えていると直感し、意地でも長生きしたいと思ったのかもしれない。 モーツァルトの目論見は見事にはずれ、ニ短調ミサ曲は完成されず、あるいは完成する必要がなくなり、モーツァルトは自分のためにニ短調レクイエムを書くことになってしまう。 ランドンは「モーツァルトが聖シュテファン大聖堂楽長になっていたら、教会音楽の歴史もおおいに異なった道を辿ったことだろう」と残念がっている。

ド・ニは「ホモフォニー様式で書かれた宗教音楽の最高傑作の一つ」といい、また、アインシュタインはド・サン・フォアの賛辞に言葉を重ねて

祝祭的気分は荘重さに道をゆずった。 《アンダンテ・マエストーソ》はもはや序奏の数小節だけでなく、全曲にわたって適用される。 ニ短調、それはレクイエムの調性である。 モーツァルトはまだ死のことを考えてはいないが、このキュリエはいっさいの高貴な荘重さにもかかわらず、ふたしかなものへの怖れに、それと同時に温和さに、救いの慈愛への信頼に息づいている。 半音階法はつねに和声終止の安定感に譲歩し、刺激はつねに安らいに譲歩する。 建築的構想の円熟、声楽部と器楽部の境界設定、細部における仕上げの繊細さは(管楽器のどれか一対を追求してみるがいい!)、ひざまずきたくなるほどのものである。
[アインシュタイン] p.468
と書いている。 また、ド・ニは「弦楽器によるモティーフの一つは、すでに『魔笛』のなかのパミーナの歌う苦渋に満ちた、あきらめの境地のアリアそのものである」とも言っている。 迷子石のようなこのキリエが大規模なミサ・ソレムニスの完成にまで至らなかったのは残念なことだが、これがモーツァルトの運命だったのだろう。 さらに想像を逞しくすれば、当てがはずれて演奏の機会を失ったこの曲を自作目録に記載する気にならなかったのかもしれない。
1791年12月



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聖シュテファン教会
余談であるが、ホフマンより先にこの世を去ることになるモーツァルトは死の床で自分のポスト(聖シュテファン大聖堂楽長補佐)の後事をウィーン宮廷次席オルガン奏者アルブレヒツベルガー(55歳)に託したと言われる(ゾフィー・ウェーバーの証言)。 モーツァルトは彼の腕前を高く評価していた。 確かに彼はモーツァルトの死後その補佐の地位に就き、そしてホフマンの死去に伴い楽長となった。

よく知られているように、聖シュテファン教会はモーツァルトが父の同意がないままコンスタンツェと結婚した(1782年8月4日)ところであり、そしてまた1791年12月5日0時55分に息をひきとったあと、翌6日午後3時に同教会で葬儀が執り行われたところでもある。 アルブレヒツベルガーはそのときの数少ない参列者の一人であった。

〔演奏〕
CD [UCCP-4084] t=8'24
ロンドン交響楽団・合唱団、デイヴィス指揮
1971年4月
CD [PHILIPS PHCP-3597] t=7'35
モンテヴェルディ合唱団、ガーディナー指揮、イギリス・バロック管弦楽団
1986年11月、ロンドン
CD [WPCS-4094] t=7'30
アルノルト・シェーンベルク合唱団、アーノンクール指揮、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス
1992年、ウィーン

〔動画〕

〔参考文献〕


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2016/02/14
Mozart con grazia