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劇場セレナータ「アルバのアスカニオ」 K.111〔編成〕 2 fl, 2 ob, 2 hr, 2 tp, timp, 2 vn, 2 va, vc, bs〔作曲〕 1771年8月21日〜9月23日 ミラノ |
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パリーニ(Abbate Giuseppe Parini, 1729-99)詞に曲をつけた祝典劇。 モーツァルトは1769年12月から1771年3月までのイタリア旅行で大成功を納めたので、ウィーン王室マリア・テレジア女帝の皇子フェルディナンド大公(1754-1806)とモデナのベアトリーチェ王(Principessa Maria Beatrice d'Este, 1750-1829)の婚儀のために祝祭オペラの注文を、高名な老作曲家ハッセ(Adolf Hasse, 当時72歳)とともに受ける光栄を得た。 作曲依頼は3月末。 父レオポルトはさっそく先のイタリア旅行で世話になったボローニャのパッラヴィチーニ伯爵にその名誉を伝えている。
1771年7月19日このように、レオポルトのお陰で、この作品の成立についての状況がはっきりしている。 またとない最高の機会に巨匠ハッセとともに自分の息子が作曲の指名を受ける栄誉を手にしたのだから、レオポルトが狂喜したのは当然である。
ミラノの劇場当局から手紙を頂戴いたしましたが、愚息が1773年の謝肉祭用オペラを書きますことに同意され、またそのすこしあと、フェルディナント大公殿下のために劇場用セレナータないしカンタータを書くため、ミラノに9月初めに参りますことが求められました。 まことに名誉ある機会でありまして、巨匠中の最年長者であられ、ザクセン人と綽名されるアードルフ・ハッセ氏がオペラを書かれ、最若輩の楽匠がセレナータを書く予定でありますが、パリーニ師なる人物が現在このカンタータの台詞を書いておりまして、ヴィーンからの便りでは、来月なかばには完成され、『アルバのアスカーニョ』と題される予定でございます。[書簡全集 II] p.273
これはフェルディナント大公とモデナのマリア・リッチャルダ・ベアトリーチェ王女との結婚祝典に際して、女帝の依頼でフィルミアン伯爵が少年に注文したものである。 以前にはこのようなセレナータは一つのオペラ・セリアの三幕のあいだに挿入されるのだが、この場合のように非常に重要な帝室の婚礼の際なので、特別な晩を設けてセレナータを独立で演奏させ、本来の祝典オペラをそれにつづいて上演させた。 この祝典オペラはメタスタジオの『ルッジエロ、まことは、英雄的感謝』をJ・A・ハッセが作曲したもの(ハッセの最後の作品)であった。モーツァルト父子は8月13日にザルツブルクを出発、ひどい暑さと砂ぼこりに悩まされながら、ようやく21日にミラノ到着。 台本は8月31日に受取り、すぐに作曲にとりかかった。 父レオポルトはこの仕事をやり遂げることの外交的な意味を十分に認識し、息子に対する指導をいっそう強めていたに違いない。 少年モーツァルトは意欲的に作曲に取り組み、9月中には仕上げている。[アインシュタイン] p.541
モーツァルトは4週間でそれを作曲した。 手はじめはシンフォニアで、これは本当のブッフォ・シンフォニアであり、直接バレーに移る。 それからレチタティーヴォと合唱曲を、最後にアリアを仕上げた。 これは彼の年齢と天才に全くふさわしい注文だったのである。 なぜなら、目的は純粋な装飾的作品であって、合唱曲と舞踏曲と2種類の(セッコと伴奏付)レチタティーヴォを、できるだけすぐれた音楽の衣装に包んで並べることだけを考えればよかったからである。 劇的な要求は出されていないのである。ただし、この頃、モーツァルトは鼻風邪とカタルに苦しんでいたという。 それでも作曲は猛烈なスピードで進んでいた。 レオポルトはザルツブルクの妻へ伝えているところによれば同書 p.542
1771年9月12日、ミラノ作曲の進み具合について、レオポルトのお陰で、ザルツブルクへの手紙がたくさん残されているので、手に取るようにわかっている。 そして、いよいよ仕上がるときがきた。
セレナータは、実際はむしろ二部の劇ですが、ヴォルフガングは神さまのご加護で12日あとにはすっかり仕上げられるでしょう。 楽器つき、ならびに楽器なしのレチタティーヴォは全部出来上がったし、8曲ある合唱もそうで、このうち5曲には踊りがつきます。 今日、私たちはバレエの練習を見ましたが、ふたりの主役舞踏手ピックとファヴィエが熱心なのにびっくりしました。[書簡全集 II] p.289
1771年9月21日、ミラノのモーツァルトからザルツブルクの姉へこうして9月23日(月)に作曲が完了し、翌24日(火)に父子の散歩ができるようになった。 27日(金)には合唱だけの練習があり、そして28日(土)には完全な編成での初めての稽古ができた。
おかげさまでぼくは元気です。 長い手紙は書けません。 第一に、書くことがないし、第二に、書きすぎて指が痛みます。 ごきげんよう。 ママの手にキスを。 なんども口笛を吹きますが、だれも答えてくれません。 セレナータのアリアがあと二つだけ残っていますが、それでおしまいです。 友だちのみなさんによろしく。同書 p.294
序曲(Allegro assai ニ長調)のあと、劇は以下のように進展する。
第1幕
〔登場人物〕 .... 初演のときの歌手
〔あらすじ〕
タイトルにあるアスカニオとは女神ヴィーナスの息子の名前であり、母に代わって地上を統治し、ヘラクレスの娘でニンフのシルヴィアと結婚するように言われる。 シルヴィアは夢の中に現れた若者に恋するが、それがアスカニオだとは知らずに、彼の接近を拒絶する。 やがてアルチェストから夢の中に現れた夫となるべき若者はアスカニオであると知らされ、二人はめでたく結ばれる。この劇場セレナータの目的からして、モーツァルトは「純粋な装飾的作品」を仕上げるだけでよかった。 そのために「合唱曲と舞踏曲と2種類のレチタティーヴォを、できるだけすぐれた音楽の衣装に包んで並べることだけを考えればよかった」(アインシュタイン)のである。 登場人物のなかで、ヴィーナス(Venera)はもちろんマリア・テレジア女帝であり、主人公であるアスカニオは皇子フェルディナンド大公である。
祝典にふさわしく、この劇にはバレエが多く含まれている。 まず短い序曲の後、幕が開くと3人の女神のバレエの場面となる。 続いてアレグロとなり、精霊たちが加わる。 さらに8曲ある合唱のうち5曲(第2、第9、第33の3曲と、第6と第28、あるいは第28と第29の2曲)にも踊りがつくだけでなく、第1部と第2部の幕間(まくあい)に、羊飼いの娘たちや精霊たちの踊りがある。
大公新夫妻は、いわば自分たち自身の最初の出会いが舞台の上で、英雄的・牧歌的な仮装の姿で演ぜられるのを見るわけである。 フェルディナントはつまり女神ヴィーナスの孫アスカーニオであり、マリア・ベアトリーチェはアルケーウスの種族から出た羊飼の娘シルヴィアである。 事件の唯一の紛糾は、ヴィーナスがその孫に、自分が選ばれた者であることをはじめから誇示するのを禁ずることから生じ、シルヴィアの失神で頂点に達する。[アインシュタイン] p.541
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1771年10月19日、レオポルトからザルツブルクの妻へ少年モーツァルトが最長老ハッセを打ち負かしたかどうかはわからないが、好評だったことは確かのようである。
今、劇場に行くところです。 というのは、16日はオペラ、そして17日にはセレナータでしたが、このセレナータはびっくりするほど人気があったので、今日もまたくりかえし上演されなければならないのです。 大公はまた筆写譜を二部お命じになられました。 要するにだ! お気の毒だが、ヴォルフガングのセレナータがハッセのオペラをすっかり打ち負かしてしまったので、私はそれをどう説明してよいのかわからないほどです。[書簡全集 II] pp.302-303
1771年11月9日、レオポルトからザルツブルクの妻へこの大成功を足がかりに、レオポルトは息子をミラノで何らかの安心できる地位が得られるように、若いフェルディナント大公に働きかけていた。 大公はその願いにこたえるつもりがあったようで、彼は母マリア・テレジア女帝に相談したが、その返事がくる前に、モーツァルト父子は希望がかなわないまま12月5日にミラノを離れ、15日ザルツブルクに帰郷。 それから間もなく、マリア・テレジア女帝からミラノの大公に次のような手紙が送られたのだった。
昨日は私たちはハッセ氏とごいっしょして、フィルミアーン伯爵閣下のお邸で食事をしました。 ハッセ氏もヴォルフガングも作品のためにすばらしい贈物を頂戴しました。 お金を頂戴したのに加えて、ハッセ氏は嗅ぎ煙草入れを、またヴォルフガングはダイヤモンドをちりばめた時計をもらいました。同書 p.315
1771年12月12日ただし、レオポルトがミラノの自分の息子の就職を目論んで動き回っている噂は、ミラノの大公から直接相談を受けるまでもなく、もっと早くからウィーンに届いていただろう。
あなたはザルツブルク出身の若い人を使いたいと私に頼んで来られました。 私はあなたが作曲家のような役立たずを何故必要となさるのか分かりませんし、信じられません。 勿論それでもあなたがそれで満足なのでしたら否やは申しません。 しかし私が言っているのはあなたが役立たずのことで苦情を言わなければということであって、そういう人達があなたに仕えているかのような肩書きのことまでは含めていません。 そういう人達がまるで乞食のように世界中をほっつき回るとしたらそれは職務を侮辱するものです。 それに乞食には大家族がつきものです。[ドイッチュ&アイブル] pp.107-108
母親に従順な大公は、もちろんそれ以上モーツァルトの採用も考えなかったし、彼になんの称号も与えなかった。 もしレーオポルトが、かつては自分の子供たちに大公家の御用済みの衣服を贈った慈悲深い国母陛下が、実際には自分とヴォルフガングについてどう考えていたかを知ったとしたら、どうだろう! 無用の者ども、芸術のジプシー、わずらわしいやから、とは! レーオポルトの忠誠心は傷つけられたことであろう。レオポルトはザルツブルク大司教から認められたミラノ滞在期間を、いろいろ理由をつけて引き伸ばしていたため、10月と11月分の俸給支払い差し止めを受けていた。 無駄に時間をつぶし、モーツァルト父子がザルツブルクに帰郷した翌日、1771年12月16日、シュラッテンバッハ大司教が死去、73歳。 帰郷早々レオポルトは2ヶ月分の俸給支払いを請願しなければならなかった。 大司教の葬儀は翌1772年1月2日、ミハエル・ハイドンのレクイエムで執り行われた。[アインシュタイン] p.53
〔演奏〕 全曲
CD [NAXOS 8.660040-1] (2枚組) total t=158'33 Venus ウィンザー, Ascanio チャンス, Silvia フェルドマン, Aceste ミルナー, Fauno マニオン, パリ・ソルボンヌ大学合唱団, グランベール指揮ブダペスト・コンチェルト・アルモニコ 1990年9月、パリ・ソルボンヌ ※ 全曲の歌詞付き。ただし邦訳なし。 |
CD [BRILLIANT CLASSICS 99734/1-5] (3枚組) t=154'15 C. Patacca (S, Venera), M. Beekman (S, Ascanio), N. Wemyss (S, Silvia), T. Allen (T, Aceste), C. McFadden (S, Fauno), Vocaal Ensemble Coqu, Jed Wentz (cond), Musica ad Rhenum 2002年5月、ユトレヒト ※ 全曲の歌詞付き。ただし邦訳なし。 |
〔演奏〕 一部
CD [Campion Records, CAMEO 2003] (5) t=4'52 ラウニヒ Arno Raunig (Sopranist), Walter Kobera (cond), Amadeus Ensemble Vienna, Wien-Landstrasse Chamber Choir 1989年8月、Bergkirche Wien-Rodaun |
CD [RCA BVCC-715] (22) t=6'30, (5) t=9'27, (16) t=3'52 シュトゥッツマン Nathalie Stutzmann (contralto), スピヴァコフ Vladimir Spivakov (cond), モスクワ・ヴィルトーゾ Moscow Virtuosi 1994年7月、ノイマルクト |
CD [DECCA 466 196-2] (22) t=3'42 ショル Andreas Scholl (counter T), Sir Roger Norrington (cond), Orchestra of the Age of Enlightenment 1998年12月、Henry Wood Hall, London |
CD [東芝 EMI TOCE-55200] (21) t=10'33 ナタリー・デセイ (S), ラングレ指揮ジ・エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団 2000年 |
〔動画〕
交響曲 「アルバのアスカニオ」 ニ長調 K.120 (111a)
〔作曲〕 1771年10月末か11月初 ミラノ |
オペラ「アルバのアスカニオ」の序曲を交響曲に転用するために、第1曲アンダンテ(女神たちの踊り)を第2楽章に置き、新たに第3楽章(フィナーレ)用にプレスト(K.120)を作曲したもの(アンドレ)と思われている。 そのため、K.111a という番号が与えられている。 しかし成立に関する資料は残っていない。 また、そのフィナーレの自筆譜はザルツブルク製なので、成立時期はモーツァルト父子がミラノから離れ、ザルツブルクに帰郷した1771年12月15日以後、ザスローによれば「1771年12月後半と1772年10月初めの間のいつかに書かれた可能性のほうが強い」という。
〔演奏〕
CD [ポリドール FOOL-20365] t=6'21 ホグウット指揮 Christopher Hogwood (cond), エンシェント室内管弦楽団 Academy of Ancient Music 1978年頃、ロンドン |
〔動画〕
〔参考文献〕
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