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ピアノ協奏曲 第26番 ニ長調 「戴冠式」 K.537

  1. Allegro ニ長調 4/4 ソナタ形式
  2. Larghetto イ長調 2/2 三部形式
  3. Allegretto ニ長調 2/4 ロンド形式(あるいは展開部を欠くソナタ形式)
〔編成〕 p, 2 vn, va, bs, fl, 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 tp, timp ad lib.
〔作曲〕 1788年2月24日 ウィーン
1788年2月




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オペラ作曲家としての名声を渇望していたモーツァルトに対して、作曲の依頼はほとんどなく、わずかなチャンスで作曲したオペラ作品も、唯一プラハを除いて、良い評判が得られなかった。 1784年2月10日に父へ宛てた手紙に

今のところ、すぐにも、後になってからでなく、お金になるようなものを書かなければなりません。
[手紙(下)] p.99
と書いてあるように、すぐに収入を得るための方策の一つとして、ピアノ協奏曲を書き、その新曲を発表する予約演奏会を開くことが生活を安定させる重要な手だてであったが、1787年頃から客がさっぱり集まらなくなってきていた。 4年前の1784年には自分の演奏会に174人もの予約があったことを父に誇らしげに知らせていたことを思えば、自分に対して冷めてしまったウィーンの聴衆から人気をもう一度取り戻したい強い願望がモーツァルトにあったであろう。 東方の地方都市プラハで名声を得るより、何としてでもウィーンに踏み止まって成功しなければ、自分のプライドが許さなかったであろう。 1787年10月28日に、この時期の重要なオペラ作品である「ドン・ジョヴァンニ K.527」を発表したが、これもプラハでは大成功だったにもかかわらず、ウィーンでは1788年に15回上演されただけで、モーツァルト存命中はもう二度と上演されなかったことが知られている。 すぐに収入を得るという目的で同じ年の4月から5月にかけて書いた2つの弦楽五重奏曲(ハ長調 K.515 とト短調 K.516)も売れない事態に直面し、ある私的な演奏会のために、このピアノ協奏曲の作曲に及んだものと思われる。 自作目録に上記の日付(1788年2月24日)で記録され、ピアノ協奏曲としては、1786年12月4日に作曲した「第25番 ハ長調 K.503」以来の作品になる。 しかし、この「第26番 戴冠式」はもっと早い時期の1787年初めに作曲されていたとする説もある。 演奏会を催す機会がなくなり、したがって完成する必要がなくなったことで作曲を中断していたのだろう。 現実主義者のモーツァルトは差し迫った動機なしに作曲することがなかったので、自作目録の日付は重要な意味をもっている。 よく知られているように、父レオポルトは1787年5月に亡くなり、貴重な資料となる書簡のやりとりが途絶えてしまった。 この曲の成立について具体的な記録はなく、そのため推測するしかないが、モーツァルト自身が記載した日付から、四旬節(復活祭の46日前、1788年は2月12日から始まる)の期間中に催される(公的な記録がないので)ある私的な演奏会のために作曲されたのだろう。
1788年の四旬節の演奏会のために書かれたのであるが、モーツァルトはそれをヴィーンで演奏することができたかどうかはわからない。 しかしベルリーンへの旅には、彼はこの曲をたずさえて行き、1789年4月にはドレースデンの宮廷で演奏したのである。
[アインシュタイン] p.424
楽器編成にもそれを窺わせるものがあり、モーツァルトは自作目録で管楽器とティンパニはアド・リビトゥム(任意に)と記載している。 私的な小編成による演奏会でも演奏可能な曲に仕上げたものと推測される。 また、自分が演奏するなら完全に曲を楽譜に書き上げなくてもよいとした箇所が多く見られることも指摘されている。
現存する自筆楽譜には、独奏クラヴィーアのパートにいささかスケッチ風な箇所も見受けられる。 たとえば、第2楽章の右手のパートは主要旋律のみで、左手用の音符はひとつも見当らないし、第3楽章でもスケッチの段階といえる箇所がある。 主としてそれは、演奏会までの時間的余裕がなかったり、自ら独奏パートを演奏する場合には細部まで完全に作曲する必要がなかったためであろうが、『戴冠式』にはそうした部分が多い。
[事典] p.418
ただし残念ながら、このときの演奏(初演)があったかどうか、まったく不明である。 したがって、アインシュタインが説明したように、次なる演奏の機会に目を向けることになる。
1789年4月


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モーツァルトはその当時の幣束した現状を打破するために、1789年4月、ウィーン最高法廷書記ホーフデーメル(Franz Hofdemel, 1755?-91)に100フローリンの借金をして、リヒノフスキー侯爵(Karl Furst von Lichnowsky, 1756-1814, 当時33才)と一緒に、プラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ポツダムへ旅立ったのであった。 その旅の途中、ドレスデンで、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト3世(1750-1806)の妻アマーリエ(Amalie von Pfalz-Zweibrucken)のもとで、モーツァルトは演奏会を開く機会をもつことができた。

『ドレースデン侍従局通信』 1789年4月14日
夜、選帝侯妃殿下の部屋で演奏会があった。 ヴィーンの楽長モッツァルト氏がクラヴィーア、プリンツがフルート、9才の少年クラフトがチェロを演奏し大喝采を博した。
[ドイッチュ&アイブル] p.226
このとき演奏されたのが、この曲であり、また、それが初演であったといわれている。 また、この演奏会にはドゥーシェク夫人(36歳)も共演していた。 ソロモンは「たまたまドレスデンに来合わせていた」と言うが、彼女がちょうどこのとき当地に来ていた理由は何だったのだろうか。 演奏会の2日後の4月16日、モーツァルトはウィーンに残る妻コンスタンツェに手紙を送り、
なに? まだドレースデンにいるの? そうなんだよ、きみ。 こと細かに何もかも話そう。
[書簡全集 VI] p.501
と前置きしながら、14日の演奏会で新しい『ニ長調協奏曲』を演奏したことしか知らせていない。 共演者にドゥーシェク夫人がいたことについては何も書いていないのである。 しかも「そのあくる日、15日水曜日の昼前に、とてもきれいな小箱をいただいた」と書いているが、その中に100ドゥカーテンもの大金が入っていたことには一言も触れていない。 そのかわり、奇妙なことに彼は妻に6つの具体的なお願いを書いている。 「淋しがらないこと、健康に注意すること、ひとりで外出しないこと、ぼくの愛を固く信じること、もっと詳しい内容の手紙を書いてくれること、ぼくの名誉を考えて行動し外見に気をつけること」などである。 これからのモーツァルトが旅先でとった行動におおいに疑問を感じ、ソロモンは大胆な推理を展開しているが、そして彼はまさに「目からウロコ」の結論を導出して見せてくれているが、この協奏曲とは直接関係ないことなので、横道にそれず、話を本筋に戻す。
1790年10月




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さて、次にこの曲が披露されたのが、1790年10月にフランクフルトで行われたレオポルド2世の戴冠式の祭典におけるものであり、モーツァルトの死後、1794年にアンドレにより出版された楽譜には「この協奏曲は、レーオポルト2世皇帝の戴冠式の機会に、フランクフルト・アム・マインにおいて、作者により演奏された」と書かれているという。 それがこの曲が『戴冠式』と呼ばれるようになった所以である。
その戴冠式に向けて、ウィーンからはサリエリ(当時40歳)を始め、十数名の音楽家が派遣されたが、モーツァルトには声がかからなかった。 サリエリはウィーン宮廷楽長であるのに対し、モーツァルトは格下の宮廷作曲家であったから、特に差別されたわけでもないだろう。 彼はこの祝典でチャンスを掴むことを期待し、多額の借金と質入れまでしてフランクフルト行きを決断したが、成果が上がらず、借金だけが残る結果となった。 戴冠式にはベートーヴェンの「レオポルト2世皇帝即位によせるカンタータ」も演奏されたという。 さらにこの戴冠式のとき、サリエリはモーツァルトの『戴冠式ミサ』(K.317)を演奏しているから、客観的にみて、宗教音楽作曲家としてのモーツァルトの実力はそれなりに高い評価を受けていたのである。

10月15日にはフランクフルト市立大劇場で、22日にはマインツ宮廷で、それぞれ高貴な聴衆を前にしてモーツァルトの演奏会が催され、この曲(とK.459)がモーツァルト自身によって演奏されたと思われている。 その15日金曜日の演奏会については、ベントハイム・シュタインフルト(Ludwig Graf von Bentheim-Steinfurf)が書き残した記録によって、次のように知られている。

モーツァルトは自らの作曲による協奏曲を弾いた。 比類なく優美で心地良かった。 彼はアウクスブルクのシュタインのフォルテピアノを持っていた。 この種のものでは特に優れたものであり、90から100ドゥカーテンする。 この楽器はフレンツ男爵夫人のものであった。 モーツァルトの演奏法は死んだクレフラーのそれに少し似ている。 しかしモーツァルトの方がはるかに完璧である。 モーツァルト氏は背は低いが風采は非常に優雅である。 美しい飾りのついた褐色に輝くばかりの衣装を着けていた。 第二部、もう一曲モーツァルトの協奏曲。 しかしこれは最初のもの程私には満足できなかった。
[ドイッチュ&アイブル] p.237
このとき演奏されたフォルテピアノ用協奏曲が何だったのかは不明である。 アンドレが残した記述により、その一つはこの『戴冠式』だったのだろう。 もう一つは『第2戴冠式 ヘ長調』(K.459)と推測されている。 ただしどちらが先に(第一部で)演奏されたかは不明。 この演奏会は午前11時に始まり、各曲の合間に長い休憩をはさんで、3時間もかかったという。 客は昼食に行きたくていらいらしていたので、最後の交響曲は演奏されずに終った。 他方、モーツァルトが妻コンスタンツェに宛てた手紙では
フランクフルト・アム・マイン、10月3日
ここでは、今までのところ、すっかり閉じこって生活している。 午前中はずっと外出せず、穴のような部屋にいて、作曲をする。 明日の月曜に(皇帝レーオポルト2世の)入城があり、一週間後に戴冠式が行われる。
 
フランクフルト、10月8日
水曜か木曜にぼくの演奏会を開くつもりでいるし、それから金曜にはすぐ、トットと、逃げ出すのが一番だと思う。 ぼくがここでは有名で、驚嘆と人気の的になっていることは確かだ。 しかしここの人間は、ともかく、ヴィーンの人たちよりもけちん坊だ。 発表会がいくらか首尾がいいとすれば、それはぼくの名前と、ぼくをいろいろと世話してくれるハッツフェルト伯爵夫人とシュヴァイツァー一家のおかげだ。 いずれにしても、もう終りだと嬉しいんだが。 ヴィーンで一生懸命はたらき、生徒を取れば、ぼくたちはけっこう楽しくやって行ける。 そして、ぼくにこの計画をやめさせることができるのは、どこかの宮廷でいい働き口がある場合だけだ。
 
フランクフルト、10月15日
今日、11時にぼくの発表会があった。 名誉の面では上乗だが、金銭的には貧弱なものに終った。 運悪くある侯爵の邸で大がかりな昼食会があり、それにヘッセンの軍隊の大演習もあった。 ぼくがこの町にいるあいだ、毎日きまってそんな邪魔が入るのだ。
 
マインツ、10月17日
追伸。 前の用箋を書いていると、涙がポタポタ紙の上に落ちた。 でも今は元気。 ほら、つかまえろ。 びっくりするほど沢山のキッスが飛び回っている。 こん畜生! 僕にもいっぱい見える。ハッハッハッ! 3つひっとらえた。こいつは貴重なものだ!
[手紙(下)] pp.177-182
のように、この間の様子が伝えられているが、曲目についてはやはり不明であり、また、演奏会はモーツァルトにとって惨めな結果に終ったことがわかる。 これらの手紙には、音楽の才能に絶対の自信を持っているのに報われないことへの不満と悔しさがにじみ出ているが、一方で「生徒をとって働けば、それなりの生活はできる」と現実的な考えも忘れていない。 そのバランスがモーツァルトのどの音楽に現れているのである。 どれほど苦しいときにあっても、彼はそれを音楽にそのまま反映させることはなかった。 そこに我々がモーツァルトの作品を聴くときの幸福感あるいは安堵感につながる鍵がある。 こうして、モーツァルトは11月上旬ウィーンに戻った。

この曲を作曲したとき、上記の経緯からして戴冠式で演奏するための作品にするつもりは作曲者自身になかっただろうが、アインシュタインが言うように

しかしこの曲は、祝典に演奏するにはふさわしい作品であった。 これはモーツァルトの全体を出さず、あるいは半分も出さずにいながら、たいへんモーツァルト的である。 輝かしい愛らしい曲であり、ことに緩徐楽章がそうである。 独奏部とトゥッティの関係は非常に単純、いや初歩的である。 これは全く直接的に理解できるものだったので、19世紀もつねに直接的に理解できたのである。 この曲はニ短調コンチェルト(K.466)と並んで、モーツァルトの最もよく知られたコンチェルトとなった。
[アインシュタイン] p.425
となったことは間違いない。 ただし、以前のピアノ協奏曲が弟子のために、あるいは出版するために書かれたのに対し、この曲は自分自身が演奏するつもりのものだったので、ピアノ独奏のパートは完全には書かれず(右手の旋律のいくつかは略記のまま、左手全体は空白)、またカデンツァも書き残されていない。 ピアニストのアルフレート・ブレンデルは
ニューヨークのモーガン・ライブラリーにある自筆稿を見ると、ソロの左手の多くの部分が書かれていない。 一般に演奏されているものは、出典不明の初版(1794年アンドレ版)で、ブライトコップ&ヘルテルの古い全曲集に採用されたものだ。 これほど奏者に即興的音づけを許し、演奏によって生かされることを要求するものはない。
CD[PHILIPS 32CD-180]
と述べている。 アンドレが第2楽章で欠落している左手パートを補作したことについて、「例えばラルゲット主題の伴奏などは非常に拙劣である」(アインシュタイン)のような指摘もあるが、モーツァルト研究で著名なピアノ演奏家の久元が
このアンドレ版は長く演奏されてきたためか、人々の耳になじんでおり、演奏者もあまり意識しないでこの版を使うことが多いようだ。 アンドレ版がかなりの程度『モーツァルト流』として成功しているからだろう。
[久元] p.177
と解説しているように、現在ではそれが最初からモーツァルトによる作曲のものとして我々は聴いているのである。 また、楽器編成では、ティンパニ(と管楽器)は「任意に ad libitum」と作曲者自身が示していることについて、アインシュタインが
彼がトランペットとティンパニを総譜に入れたのは、この機会のためであったか、それともフランクフルトでの演奏のためだったかも、やはりもはや確定できない。
[アインシュタイン] p.425
と言うように、謎として残されている。 ここで「この機会」というのは「ドレスデンでの演奏の機会」のことである。 逆に言えば、
《戴冠式》という愛称がつけられ、華やかで祝祭的な作品の代表と見なされることが多いが、ティンパニと管楽器が入らない、弦楽器だけで演奏される場合には、その印象はもっと室内楽的で落ち着いたものになるだろう。
[久元] p.133
と述べているように、この協奏曲は小編成でも演奏可能であり、その場合には別種の作品になる可能性もある。 さまざまな演奏があって良いと思われる。 なお、前田育徳会(東京都目黒区)はこの曲の第2楽章のための主題の自筆スケッチを所蔵している。

〔演奏〕
CD [COCQ-84576] t=33'54
クラウス (p), モラルト指揮ウィーン交響楽団
1950~51年
CD [エフ・アイ・シー ANC-1011B] II. t=5'38
グルダ (p), コリンズ指揮ロンドン新交響楽団
1955年
CD [PHILIPS PHCP-10144] t=31'16
ヘブラー (p), デイヴィス指揮ロンドン交響楽団
1962年12月
※第1楽章カデンツァはヘブラー
CD [deutsche harmonia mundi VD 77560] t=30'49
デムス (fp), コレギウム・アウレウム
1970年
CD [PILZ 9302] t=32'33
ジウリーニ (p), リッツィオ指揮モーツァルト・フェスティバル
CD [PHILIPS 32CD-180] t=30'44
ブレンデル (p), マリナー指揮アカデミー
1983年
CD [WPCC-5317] t=32'58
グルダ (p), アーノンクール指揮コンセルトヘボー管弦楽団
1983年9月、アムステルダム
CD [PHILIPS PHCP-1103] t=32'33
内田光子 (p), テイト指揮イギリス室内管弦楽団
1987年
カデンツァは内田光子
CD [PCCY 30090]
ディール (p), ウォン (bs), デイヴィス (ds)
2006年、編曲

〔動画〕

〔参考文献〕


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2014/09/07
Mozart con grazia