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ミサ曲 第13番 変ロ長調 K.275 (272b)
〔作曲〕 1777年9月23日以前 ザルツブルク |
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モーツァルトのミサ曲は大小20数えることができ、そのほとんどはザルツブルクの大聖堂での典礼のために書かれた。 この曲はその中で大司教の好みに合わせて簡略化された最後のミサ・ブレヴィス(短いミサ)である。 父レオポルトが息子にかわって書いた手紙がある。
1776年9月4日、ボローニャのマルティーニ神父へかつて神童ともてはやされた息子を連れてヨーロッパ中の名だたる宮廷で喝采を浴びた栄光を忘れられないレオポルトは地方都市ザルツブルク宮廷楽団の副楽長のまま。 その後は音楽の本場イタリアで息子が一人前の作曲家としてデビューできるよう画策するが失敗。 息子の成功と自分の成功とが一緒になってしまった父親。 このまま花を咲かせることなく埋もれてしまうのか、レオポルトの胸のうちに不満が高まっていた。 その不満を息子の名前を借りてマルティーニ神父に愚痴ったのだった。 それから一年後、またまた息子の名を語って、今度は雇い主であるコロレド大司教に直接嘆願する。
われわれの教会音楽はイタリアのそれとは大層異なっておりまして、キューリエ、グローリア、クレード、教会ソナタ、オッフェルトーリオあるいはモテットなりサンクトゥス、およびアニュス・デイをすべて具えたミサ、さらにもっとも荘厳なミサよりもつねに長いのでありますが、そのミサを君主お自身が唱えられます時には、45分以上かかってはいけないことになっています。 この種の作曲のためには、特別の研究が必要であります。 それにしましても、それはすべての楽器(戦闘用のトランペット、ティンパニ等も)を用いたミサにならなければなりません。[手紙(上)] pp.41-42
1777年8月1日、大司教にそして(就職活動のために)パリ旅行できるように自分の辞職を申し出たのである。 レオポルトは父としての責務をはたすことができるように処遇の改善を求め、あわよくば息子の旅行に付き添って行けることを期待したのだろうか。 彼は気づいていなかったが、すでに大司教をはじめウィーン宮廷にもレオポルトの言動は胡散臭いものと危険視されていたようである。 8月28日、大司教は手紙の主は父レオポルトであると見抜き、親子二人の辞職願いを認めた。 まさか自分までも解雇されるとは思っていなかったレオポルトはショックで寝込んでしまったという。 こうして息子モーツァルトは母と二人で9月23日から1779年1月までの1年半に及ぶマンハイム・パリへの大旅行に出ることになる。 自由の身となった父レオポルトが付き添って行くこともありえたが、そうならなかったことは後世の我々にとってありがたかった。 お陰で父子の間の往復書簡によってモーツァルトの成長をつぶさに知ることができるからである。 ついでながら、寝込んでしまったのはレオポルトだけではなかった。 姉ナンネルも母と弟が旅立ったその日、別れの悲しさから「ほとんどベッドで過ごし、吐き、ものすごい頭痛に襲われた」のだった。 さらに余談であるが、レオポルトの復職はその3日後にかなったのである。
猊下におかれましては、この私だけが旅行してよろしいと仰せになられました。 私どもの境遇は切迫いたしております。 父は私だけを旅立たせるよう決意いたしました。 しかしながらここでもまた猊下は、いくばくかの御異議をさしはさまれました。 国君猊下! 親たる者はその子供たちにみずから生活の糧を得るべき力を与えようと努めるものであり、これこそ自分の子らのためにも、また国家のためにも当然の責務であります。 子供たちが神より才能を授けられておりますればおりますだけ、それだけいっそうそれを活かしまして、子供たち自身ならびに親たちの境遇を改善し、親を助け、自分たちの立身と将来について配慮すべき義務がございます。[書簡全集 III] p.33
1777年9月26日この曲が書かれた動機ははっきりしないが、母子二人の大旅行の無事を祈願するために作曲した奉納ミサであるとみなされていて、関連して奉献歌 K.277 (272a)と昇階誦 K.273 がある。 モーツァルトが母アンナ・マリアとともにザルツブルクをたつのが9月23日であるので、したがってその以前に作曲されたのだろう。 しかし演奏されたのは3ヶ月後のことだったと見られている。 12月21日ザルツブルクで演奏されたことが父レオポルトの手紙に記されているからである。
閣下の楽団員たる請願人が閣下の慈悲に対してその了解を求めたことに対する決定。 尊き閣下は引き続き宮廷楽団の楽長、及び団員に対して今まで通りの安らかな、なごやかな関係をお続けになる。 今までの勤めはそのままにさせて慈悲をお示しになる。 教会に対しても尊き閣下に対しても勤めに励むことを強く望んでおられる。[ドイッチュ&アイブル] pp.131-132
1777年12月22日、ザルツブルクの父からマンハイムの息子へそれを根拠に、アインシュタインは
昨日、日曜日の21日に、聖務日課のあと書いたものですが、この聖務日課では、おまえの変ロ長調のミサ曲が演奏され、カストラートがとても見事に歌いました。[書簡全集 III] p.377
それがおそらく初演であろう。 わたしの考えでは、それはモーツァルトが大旅行の幸福な結果を祈願して作曲した一つの祈誓ミサ曲である。 それは彼の出発後にはじめて、聖務日課において歌われたのである。とほぼ断定しているが、モーツァルトが出発する前に演奏されなかったとする確証はない。 作曲の動機が上記のことであったなら、むしろ演奏されて、心細い思いのアンナ・マリアに勇気を与えたと考えても不自然ではない。 想像をたくましくすれば、旅立つ母と郷里に残る娘が涙を流しながらこのミサ曲に慰められている姿が目に浮かぶようである。[アインシュタイン] p.460
この曲の楽譜が完成したのは12月21日、つまりモーツァルトがすでに旅行に出発した後という可能性もある。という事情があったのではないかと言っている。 そして彼はアインシュタインの言う「大旅行の幸福な結果を祈願して作曲した一つの祈誓ミサ曲(messe votine)」という見解を支持し、[ド・ニ] p.51
『聖母ミサ曲』とすればさらによかろう。 曲はすこぶる親しみのこもった抒情的なもので、オーケストラの編成もはなはだひかえめであり、したがって曲は教会と世俗との区別をなくした個人的な性格のものに近い。 同時にこの曲は南ドイツの民衆的傾向をも持つので、モーツァルトのミサ曲のうちで、オーストリアやバイエルンの教会合唱団の古い写本中にこれほど多く見いだされるものがないことも理解されるのである。というこのミサ曲に対する印象をそのまま受け入れている。 そのうえでド・ニは「モーツァルトの目からみたミサ・ブレヴィスの理想型を表している」といい次のように続けている。[アインシュタイン] p.460
このミサ曲のなかでモーツァルトは音と様式との完全な統一を実現し、さらに曲の短さのうちに、凝縮された形で個性溢れる表現力の強さを出現しえたからである。 この曲が単純すぎて、厳格な様式美のかけらもないと嘆く人もあるかも知れないが(サンクトゥスの冒頭のフガートですら厳格な様式にまったく添っていない)、むしろこのミサ曲ではたとえば素晴らしいアニュス・デイに見られるような、表現を豊かにするために磨きぬかれたハーモニーにこそ着目しなければならない。 しかもアニュス・デイでは、注意深く曲に接すれば、声部と楽器とのあいだの完璧な対位法の存在に気がつくであろう。また、ゲルハルト・ワルタースキルヒェンもこの短いミサ曲を「殊玉の作品」と讃え、[ド・ニ] p.52
ここでは型を破った着想が見られ、たとえば、キリエがソプラノ・ソロで導入される点とか、グローリアのコーラスの「音の絵」のような性格などが例として挙げられるが、中でもアーグヌス・デイの結びが6小節のテーマである点は、古典期の作曲法のルールに違反していた。 この作曲を以てモーツァルトは、伝統や慣習から離れて、ミサの音楽づくりの上に新しい道を開くのである。と高く評価している。 モーツァルト自身もこの曲の完成度に自信をもっていた。 よく知られているように、1778年7月3日パリで母を亡くし、就職はかなわず、失意のうちに帰郷したモーツァルトは再び大司教の下僕という身分に甘んじていたところ、1780年11月5日、オペラ『イドメネオ』の完成と初演という機会を得て単独ミュンヘンに旅立つことができた。 さっそく彼は、水を得た魚のように、生き生きと音楽活動を始める。(石井 宏訳)CD[BMG BVCD-3008-09]
1780年11月13日、ミュンヘンからザルツブルクの父へこのあとモーツァルトはザルツブルクに帰ることなく、同時に父レオポルトによる厳重な束縛からも離れて、ウィーンで自立する。 そしてこのミサ曲はモーツァルトの手に戻った。 もしこれが母と二人で大旅行にたつとき、その幸福な結果を祈願して書いたミサ曲であるなら、彼にとって亡き母を思い出す大切な一品となったのではないだろうか。 最晩年の1791年7月10日、妻コンスタンツェが保養中のバーデンの教会でこのミサ曲が演奏された。 ソプラノを歌ったのは、バーデンの合唱指揮者アントン・シュトル(43才)の義妹アントーニア・フーバー(Antonia Huber, 11または13才?)だったという。
ぼくが持っている2つのミサ曲を送ってもらえませんか。 それから変ロ長調のミサ曲も。 というのは、ゼーアウ伯爵が近くそれらの曲について、選帝侯に話をされるそうです。 宗教曲の様式でも、みんながぼくのことを知ってほしいと思います。 グルーアのミサ曲を初めて聴きました。 この種のたぐいなら、一日に半ダースだって作曲できますよ。[書簡全集 IV] p.449
〔演奏〕
CD [BMG BVCD-3008-09] t=15'34 アウクスブルク大聖堂少年合唱団室内合唱隊, カムラー指揮コレギウム・アウレウム合奏団 1989年6月、Wallfahrtskirche Violau |
CD [WPCS-4094] t=18'08 アーノンクール指揮、アルノルト・シェーンベルク合唱団 1992年12月、ウィーン |
〔動画〕
〔参考文献〕
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