17 age |
61 5 |
62 6 |
63 7 |
64 8 |
65 9 |
66 10 |
67 11 |
68 12 |
69 13 |
70 14 |
71 15 |
72 16 |
73 17 |
74 18 |
75 19 |
76 20 |
77 21 |
78 22 |
79 23 |
80 24 |
81 25 |
82 26 |
83 27 |
84 28 |
85 29 |
86 30 |
87 31 |
88 32 △ |
89 33 |
90 34 |
91 35 |
92 |
キリエ ハ長調 K.323 (Anh.15)〔編成〕 S, A, T, B, 2 ob, 2 fg, 2 tp, timp, 2 vn, va, bs, og〔作曲〕 1787年〜89年 ウィーン |
作曲の目的は不明。 断片 37小節。 自筆譜(ザルツブルク・モーツァルテウム所蔵)の筆跡とファゴットの扱いをもとに1779年頃の作とみなされていたが、その後、タイソンによる五線紙の研究から1788年頃に推定された。 ただし、1784年2月から作り始めた「自作全作品目録」には記載されていない。
のちにコンスタンツェの依頼(?)によりM.シュタトラー神父が16小節追加し補作完成。 そこには「これがキリエでなく、仮にドイツ語などの別のテキストによるものならば、直ちにそれだけで充足したすばらしい合唱曲となるはずだとのシュタトラーの書き込みがある」([事典] p.70)という。 荘厳な性格のこの曲について、アインシュタインは
ザルツブルク時代の最終期またはその直前のものである。 きわめて豊かなオーケストラの編成を持つこのキュリエは、かつては完全なものであった。 ヴィオラが用いられ、オブリガートに書かれていることからみて、おそらくこれは本寺でのミサ用に作曲されたものではなく、或る連禱の第一楽曲だったのである。 モーツァルトはそのなかで、バロック的な活気と最も広い自由をもって奔放にふるまっている。 モーツァルトとコンスタンツェの友であったマクシミーリアーン・シュタットラーは、それを素朴に完成、あるいはむしろ終結して──正当にも──傑作と呼んだのである。と解説していた。 それに対して、ド・ニは2つのキリエ「変ホ長調 K.322」と「ハ長調 K.323」は同列のものであるとして、次のように主張していた。[アインシュタイン] pp.464-465
偉大なモーツァルト研究家であるアインシュタインが、オットー・ヤーンの説に従って、K323のハ長調の「キリエ」が、この一年後にザルツブルクで作曲されたものだとしているのはなぜだろうか。 この「キリエ」は声楽部も器楽部も変ホ長調(K322 / 296a)の「キリエ」とまったく同じで、しかも様式的にもメロディーからみてもきわめて近いのである。 だからこの二つの曲は、サンクトゥスの断片(K296c)やグロリアの断片(K323a/Anh.20)などとともに、1778年の2月にマンハイムで作曲されたと考えて、ハ長調の「キリエ」を K296b としたほうがずっと自然であろう。 というのはこの2曲のキリエは大曲であり、なぜ2番目のキリエだけが「連禱(リタニア)の第1楽章として書かれた」とアインシュタインがいっているのか理解できないのである。しかし上記のように、このキリエ「ハ長調 K.323」は晩年に近い1787年から1789年にウィーンで書かれたもの(断片)と推定され、さらにド・ニが例示したグロリアの断片(K323a/Anh.20)も同じように見直されたのである。 従来、モーツァルトはウィーン定住後に教会音楽を書いていないというのが定説だったが、使用された五線紙の研究により、1787年以降に教会での定職を得ようとして作曲を試みていたと考えられるようになった。 そのように見直されている教会音楽の断片が以下のように多くある。[ド・ニ] pp.88-89
〔演奏〕
CD [PHILIPS 422 749-2〜753-2] t=3'03 ライプツィヒ放送合唱団、ケーゲル指揮、ライプツィヒ放送交響管弦楽団 1990年5月、ライプツィヒ |
CD [UCCP-4083] t=3'03 ※上と同じ |
CD [WPCS-4566] t=2'59 アルノルト・シェーンベルク合唱団、アーノンクール指揮、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス 1992年2月、ウィーン |
〔動画〕
〔参考文献〕
Home | K.1- | K.100- | K.200- | K.300- | K.400- | K.500- | K.600- | App.K | Catalog |