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交響曲 ニ長調 「にせの花作り女」 K.207a (121)〔編成〕 2 ob, 2 hr, 2 vn, va, bs〔作曲〕 1775年春? ザルツブルク |
モーツァルトは1774年以降、1778年の第31番(通称「パリ」 K.297)まで本格的な交響曲を書いていない。 それをアインシュタインは次のように説明している。
まえの数年の豊かな創造力のあとに来たこの事実はどう理解すべきだろうか? 外的理由がある。 イタイアあるいはヴィーンへの旅行はもう見込みがなくなったし、『いつわりの女庭師』(K.196)の初演のためのミュンヘン旅行には手もとの原稿でまにあった。 しかし内的理由もある。 ハ長調、ト短調、イ長調のシンフォニーで到達されたものは一つの頂点であって、たやすく越えられるものではなかった。「そこでモーツァルトは、シンフォニー的なものの原理をもっと手軽に扱いうる、別の分野へ向う」のであったとアインシュタインは言う。 すなわち、セレナードの改編(たとえば K.204)やオペラの序曲を交響曲に改編(たとえば K.213c)することであった。 このような流れのなかで、ミュンヘンからの帰郷(1775年3月)後、オペラ『にせの花作り女』(K.196)の序曲と同じ楽器編成で、終楽章となる「アレグロ ニ長調」(K.121)を作曲したと推測されている。 しかし交響曲として一緒にまとめられた形で残されなかったため、その「アレグロ」が交響曲の終楽章とは気付かれないで後世に伝わったというのである。 その「アレグロ」が一つの交響曲を構成する終楽章であろうと指摘したのはヴィゼワとサン・フォワであり、アインシュタインが彼らの説を支持し、プラートによる筆跡研究により「1775年春」と推定されることから K.207a に位置づけして今日に至っている。 ただし、フィナーレ楽章「アレグロ K.121」の成立については、タイソンによる自筆譜の紙の研究によれば「1772年末から73年初めにかけてミラノ」という可能性があり、その点を踏まえ、ザスローは[アインシュタイン] pp.310-311
しかし用紙はミラノ産のタイプで、第3次イタリア旅行時、すなわち1772年の11月から1773年初めにかけて使われたものである。 モーツァルトはイタリア旅行時に手に入れた紙をとっておいたのであろうか、それとも彼は《偽りの女庭師》序曲のためのフィナーレが必要となった時点で、以前に書いた楽章に日の目を見させようと決心したのであろうか?と疑問を投げかけている。[全作品事典] p.247
この作品の性格について、アーノンクールは次のように解説している。
興味深いのは、3つの楽章がすべてロンド形式で書かれているということである。 これは、ある際立ったモティーフ(人々の集まりを表すことが多い)が優しげな「クプレ」によって、つまり、つがいの「カップル」による様々な歌によって、応答されてゆくジャンルである。 そこではロンドのモティーフが何度も執拗に、鼓舞するように繰り返され、そうした掛け合いが3〜5回続く。CD[BVCD 37401/02]
〔演奏〕
CD [ポリドール FOOL 20370] t=6'54 ホグウッド指揮エンシェント室内管弦楽団 1979-1984年 |
CD [BVCD 37401/02] t=7'05 アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス 1999-2000年 |
〔動画〕
〔参考文献〕
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