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最初のイタリア旅行の途上、1770年3月15日夜、ローディの宿屋でモーツァルトが彼の最初の弦楽四重奏曲(K.80)を書いたとき、このジャンルはまだあまり長い歴史を経ていたわけではなかった。アルフレート・アインシュタイン
初期の弦楽四重奏曲13曲のうち第2番から第7番までの6曲は「ミラノ四重奏曲」と呼ばれる。 それらの調性は第2番ニ長調、第3番ト長調、第4番ハ長調、第5番ヘ長調、第6番変ロ長調、第7番変ホ長調と、5度づつ下げてシリーズにしている。 6曲のうち第5を除いて、すべて「急・緩・急」の典型的なイタリア式3楽章形式であり、第5だけが「緩・急・急」の順。 また中間部の楽章では、6つのうち4つまでが短調で、彼の霊感が暗い情熱となって姿を現している。 ニ長調 K.155 は3つのデヴェルティメント K.125a ・ K.125b ・ K.125c に近いが、後の5つは純粋な弦楽四重奏曲の様式に近付いている。
1773年7月14日、父と二人で3回目のウイーン旅行に出る。 そのとき父レオポルトが命じて作らせたいわゆる「ウィーン四重奏曲」と呼ばれる6曲の弦楽四重奏曲シリーズが生まれる。 以下の6曲である。 「ミラノ四重奏曲」はどれも3楽章であるのに対して、「ウィーン四重奏曲」はメヌエットが追加され、4楽章から成る。
よく知られているように、弦楽四重奏曲の古典的形式を確立したのはヨーゼフ・ハイドンであると言われている。 彼の長い生涯に70曲に近い作品を残した。 そのハイドンは1772年に「太陽四重奏曲集」を書いて以来しばらく弦楽四重奏曲の作曲から遠ざかっていたが、1781年に、このジャンルの様式を完成させたといわれる「ロシア四重奏曲集」を作曲し翌年出版した。 それを見たモーツァルトは深く感銘を受け、それに優るとも劣らない6曲の個性的な作品を書き上げ、ハイドンに捧げた。
1785年9月1日、ヨーゼフ・ハイドンへ、弦楽四重奏曲6曲を贈るハイドン・セットとオペラとの性格的な類似を指摘する説がある。
Eccoti dunque del pari, Uom celebre, ed Amico mio carissimoi sei miei figli. ... Piacciati dunque accoglierli benignamente; ed esser loro Padre, Guida, ed Amico! Da questo momento, Jo ti cedo i miei diritti sopra di essi.
高名にして、わが親愛なる友よ、ここに6人の息子を贈りいたします。・・・ なにとぞ彼らを優しくお迎えくださり、彼らの父とも指導者ともなられますよう! 今よりのち、彼らに対する父なる権利をあなたにお譲りいたします。
K.387 ト長調 「春」 ..... K.384 後宮からの誘拐 K.421 (417b) ニ短調 ..... K.527 ドン・ジョヴァンニ K.428 (421b) 変ホ長調 ..... K.492 フィガロの結婚 K.458 変ロ長調 「狩」 ..... K.588 コシ・ファン・トゥッテ K.464 イ長調 ..... K.620 魔笛 K.465 ハ長調 「不協和音」 ..... すべてを統合 ジークムント・シュルツェ「モーツァルトのハイドン四重奏曲」
モーツァルト探求、中央公論社(1961年) pp.186-202
1789年5月17日、モーツァルトはベルリンに向けて出発し、19日到着。 宮廷で演奏。 チェロを得意としていたウィルヘルム2世から弦楽四重奏曲を6曲と、ピアノ・ソナタを6曲依頼されたと言われている。
CD [KKCC-4123-4] t=2'28 オランダ・ソロイスツ・アンサンブル 1992年 |
CD [KKCC-4123-4] t=4'18 オランダ・ソロイスツ・アンサンブル 1992年 |
CD [KKCC-4123-4] t=0'51 オランダ・ソロイスツ・アンサンブル 1992年 |
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