Mozart con grazia > 弦楽五重奏曲 >
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弦楽五重奏曲 第5番 ニ長調 K.593

  1. Larghetto - Allegro ニ長調 3/4(序奏) 〜 2/2 ソナタ形式
  2. Adagio ト長調 3/4 ソナタ形式
  3. Menuetto : Allegretto ニ長調 3/4
  4. Allegro ニ長調 6/8 ソナタ形式
〔編成〕 2 vn, 2 va, vc
〔作曲〕 1790年12月 ウィーン
〔初版〕 1793年、ウィーンのアルタリア社
1790年12月


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第1、第2、最終楽章の大部分は(1790年10月9日、レオポルト2世の戴冠式があった)フランクフルト・アム・マインに出発する前に書かれ、ウィーンに戻ってから完成され、12月に自作目録に記載された。 この年はよく知られているように極端に作品数が少なく、自作目録には編曲を除いて次の5つの作品しか記載されていない。

このうち『コシ・ファン・トゥッテ』はほとんどが前年に書かれていたから、実質的には4曲しかなく、しかも6月の弦楽四重奏曲(K.590)以降は約半年間も作曲活動がない。 その間にケッヘル番号 K.591, K.592 があるが、それはスヴィーテン男爵の依頼によるヘンデルの作品の編曲である。 この時期は妻コンスタンツェがバーデンに療養に出ていたこともあり経済的な困窮にあり、プフベルク以外にも多額の借金を重ねていた。 作曲で稼げない穴埋めとして、ピアノの弟子を2人もっているところを8人に増やしたいとさえ言うありさまであった。 オカールはこの年を「暗い年」と評して、次のように作曲家の心の危機を感じていた。
目を惹くのは、ただ作品が少なくなったということだけでなく、その霊感なのである。 いわゆる霊感が涸れたというのではないけれど、それは残酷なまでに空虚と境を接しているのである。 熱のこもったものであれ、悲しいものであれ、感情性のはいり込む余地は一切ない。 モーツァルトの最後の二つの弦楽四重奏曲はときに、まったく不快な響きを立てることがある。あまりに磨きぬかれたその技法が、最も基本的な音の官能性すら欠いているからだ。 これは貧窮のためだろうか。 だが、この年の貧窮はあれほど多くの輝かしい作品の誕生をみた1789年のあいだの貧窮よりひどいものではなかった。 今や侵されているのは、この音楽家の心なのである。
[オカール] p.164
しかし原因は作曲家個人の心の問題というものでなく、健康上の理由、さらには社会的な背景が大きく働いていたのである。 すなわち1788年から1791年にかけての対トルコ戦役によりオーストリアの国力を疲弊させ、文化生活も衰微した状況の中でモーツァルトの仕事の落ち込みと経済的な困窮が必然的に生じていたのであった。 1790年には宮廷用の舞踏音楽が書かれていないことからも推察できることである。

年次公開コンサート私邸のコンサート
17862113
17872613
17882413
1789124
179025
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1789年と90年とには、表のように、コンサート・ホールと私邸とを問わず、コンサートの回数の激減が見られる。 さらには、文化的なエリートたちの間におけるモラルの落ち込みもひどくなっていた。 徴兵の恐怖から貴族の家族たちのウィーンからの脱出が多くなり、皇帝ヨーゼフ2世に対する失望感も広まっていた。
[ソロモン] p.662
表はウィーンでの音楽会の回数([ソロモン] p.663)である。 めったに弱音をはかないモーツァルトではあったが、朋友プフベルクに宛てた借金を申し出るこの年の手紙の中には頻繁に自分の健康が悪いことを書いていた。 それを並べてみると
 4月7日頃
頭全体がリューマチ性の痛みですっかり縛られたようです。 そのため私の苦境もいっそう身にしみて感じられます。
 5月初め
歯の痛みと頭痛がいまだにひどく、特にまだつよい病変を感じます。
 8月14日
きのうはまだ堪えられるほどでしたが、きょうはひどく悪い病状です。 ひと晩中、痛みで眠れませんでした。 きのうはたくさん歩いて体が熱くなったので、そのあといつの間にか風邪をひいたにちがいありません。 私の状態を御想像ください。 病気の上に、心痛と不安ばかりで、このような状態が明らかに回復を妨げてもいます。
しかしバーデンで療養中の妻コンスタンツェには自分の病状についてひと言も書いていない。

妻の療養だけでなく、自分自身の健康上の心配も抱えていたモーツァルトであったが、この苦しい状況を打破すべく大きな賭けに出る。

その一生を通じてモーツァルトが重大岐路に立って困ったときの反応は旅だのみであり、それはほとんど肌に染みこんだ本能的なものであった。 父は彼に移動することの徳を教えた。 旅はすべての問題の解決を可能にすることであり、旅は新しい視野展望を開き、新しい機会に恵まれる、ないしは最低でも現在のツキを変える、ことができるものであった。
[ソロモン] p.664
百貨店「シュテフィ」6階の
モーツァルト記念フロアー
(長嶋春夫氏撮影)
旅の資金はもちろんフフベルクに借りて、モーツァルトは義兄ホーファー(コンスタンツェの姉)と従僕ヨーゼフとともに9月23日にウィーンを出発した。 目的地はフランクフルト、9月28日に到着。 結果としては借金だけが残って、一ケ月半後に、経済的な回復にはほど遠いものに終るのだが。
そして秋がくる。 ヨーゼフ2世の跡を継いだレーオポルト2世のドイツ皇帝としての戴冠式がフランクフルト・アム・マインにおいて挙行されることになった。 この盛儀を飾るべく、楽長サリエーリとともに宮廷楽団員が同地に赴くことになるが、常勤の宮廷音楽家ではないモーツァルトはこの一行に加えられなかった。 モーツァルトが義兄ホーファーとともに自費でフランクフルトに向けて出発したのには、ヴィーンにおける彼の音楽活動、そして生活がまさに危機的な状況にあり、その窮地を脱出すべく、名声を獲得し、収入も確保する狙いとともに、まだヨーゼフ2世の愛顧に及ぶものを手にしていない後継者レーオポルト2世に自分を売り込む目的もあったのであろう。
[書簡全集 VI] p.572

余談であるが、この曲が書かれる少し前の9月30日、モーツァルトが不在中に、妻コンスタンツェは「小カイザー館」に引っ越している。 その建物は19世紀になって解体され、さらに1960年代にまた建て替えられ現在は百貨店「シュテフィ」になっている。 その6階の一部がモーツァルトを記念するフロアーとなっているという。

そんな暗い年が終ろうとするときにこの弦楽五重奏曲ニ長調は作られたが、動機は第6番(K.614)とともにハンガリー人のヨハン・ペーター・トストの注文に応じたものと思われている。 その根拠は、1793年のアルタリア初版に「ハンガリーのある愛好家のために作曲」と記されていたことであるが、ただしその愛好家がトストであるという確証があるわけではない。 トストかどうかは別にしても、作曲依頼はモーツァルトにとって喉から手が出るほどありがたいことだったろう。 もしトストだとして、モーツァルトはどこで彼と知り合ったのだろうか? ロンドンのハイドンがモーツァルトの困窮を見かねて陰ながらトストに働きかけてくれたからであろうか?
9月28日、ヨーゼフ・ハイドンは雇い主ニコラウス・エステルハージ侯爵の死去により自由の身となったあと、ウィーンに滞在していた。 ロンドンからザロモンという興業主が、ハイドンとモーツァルトの二人とそれぞれロンドンで仕事をする契約を結ぶ目的でウィーンを訪れていたので、その話し合いのための滞在だったのだろう。 そんなときにこの曲の初演が行われた。

ハイドンはこの曲の初演を手伝っている。 彼はちょうどニコラウス・エステルハージ公を失くしたところであり、ウィーンに滞在していた(このあと間もなくヨーハン・ペーター・ザロモンと契約してロンドンに行くことになる)。 その初演のときはハイドンとモーツァルトのふたりでヴィオラのパートを受け持ち、曲によって、第一と第二を入れ替って演奏している。
[ランドン1] p.123
成果なくフランクフルトから戻ったモーツァルトにとってロンドンでの仕事の誘いは喉から手が出るほどありがたかったに違いないが、このときは断念している。 モーツァルトは一般に考えられているよりもずっと現実主義者だったので、ロンドンでの新しい生活が劇的に良くなるとは思わなかったからであろう。 ソロモンによると、モーツァルトの1790年の総収入は1850から3225グルデンだった。 そして「二度とひどい状況に陥らないように」精一杯仕事をしようと決意し、翌年の1791年には3672から5672グルデンとなったのである。
ハイドンはロンドンでの4シーズン(1791、1792、1794、1795年)に2万4000グルデン(2400ポンド、今日ではおそらく5万ポンドか8万5000ドルに相当)を得たと計算していた。 ハイドンの1791年のシーズン中の所得をはっきりさせる手立てとして、たまたま二つの預金の確実な金額がわかっている。 つまり5883グルデンで、その年のモーツァルトの想定所得よりもわずか120グルデン程度多いだけである。 もちろんハイドンはイギリスでの生活費をある程度持ってはいた。 しかし、ハイドンもモーツァルトも共に経費が嵩んだことだろう。 ハイドンは住居を借り、レストランで食事をしなければなかったし、モーツァルトは大人四人(女中たちも含めて)と子供二人の家族を扶養しなくてはならぬ上に、もてなしも多かったからである。
[ランドン2] p.97
ここには一般に思われている「世事にうとい音楽の天才」の姿はない。 6才の子供カール・トーマス(もう一人のフランツ・クサヴァーはまだ生まれていない)をもつ一家の大黒柱たらんとする父親がいる。 自作目録を見てもわかるように、年が明けるとモーツァルトは猛烈な勢いで作曲を開始した。
わずか十カ月そこそこのうちに、モーツァルトは二つの大オペラを作曲し、レクイエムのかなりの部分と、相当な数のほかのジャンルの曲を完成させたのである。 そのスピードはまさにもの凄く、《ティトゥスの慈悲》に至っては18日間で書き上げている。 彼の生産力は完全に復活した。
[ソロモン] p.722
話を戻して、一方のハイドンは契約に応じ、12月15日にザロモンと共にウィーンを離れロンドンへ旅立った。 その日、モーツァルトは食事を共にし、二人が馬車に乗るのを見送った。 ハイドンの伝記作家ディースは次のように語っているという。
・・・ ハイドンとザーロモンは出発の日取りを決め、1790年12月15に出発した。 ・・・ モーツァルトはその日友人ハイドンの傍らを片時も離れなかった。 食事を共にし、別れの時がくると彼は言った、「この世での最後の別れを述べているような気がします」。 ・・・
このときモーツァルトは「来年、私も必ず行きます」と繰り返し言ったともいうが、実際、これが最後の別れとなった。

さてこの曲は、6曲の弦楽五重奏曲中で最も力強いと評判である。 また、他の弦楽五重奏曲にはないが、この曲は冒頭に序奏を持つこともユニークである。 その序奏は自筆譜ではラルゲット、自作目録ではアダージョと指示されている。

ラルゲットでチェロをより高い声部の四重奏に対立させ、問いと応答がすぐさまより高い音域で繰り返される。 それはニ長調のピアノ・ソナタ K.576 や弦楽四重奏曲 K.590 などの偉大な晩年の器楽作品の典型的な端緒である。 それはまた、ベートーヴェンが弦楽四重奏曲作品59の2などでよく使った方法である。
<中略>
最後にロンドは最も円熟したものの一つで、戯れるような主題を持つが、この主題はフガートであって、《学問的なもの》はこのなかではまじめさをいささかも失わずに、機智と優美になっている。 元来は半音階的に下降してゆく五度であったこの主題の発端は、ただの一筆で典雅さと性格とをかち得たのである。
[アインシュタイン] pp.269-270
一般の耳には難解に聞こえたためか、終楽章のロンドのテーマ(第1ヴァイオリンによる下降半音階)は何者かによって、作曲者の死後、初版のときに平凡なテーマと取り替えられてしまった。 そのまま気付かず出版され続け、1960年頃まで間違ったままだったという。

モーツァルトの心の危機を感じ取ったオカールは「この曲はモーツァルトの全作品の中で本質的な転回点となる作品である」と強調し、それがアダージョ楽章にあることを指摘し、「最後の年1791年のあいだの、モーツァルトの芸術の変貌が開始されるのは、まさにこの、中央に深淵をもつアダージョからだ」と言っている。

これはその美しさによってだけでなく、その真に中心的な意味によって重要な作品である。 モーツァルトはそこで、深淵の最も深い底にまで達するのだが、まさにそのゆえに光のほうに再び上昇、浮かび出る。 この前代未聞の転回が実現されているのはアダージョにおいてである。
<中略>
モーツァルトの作品の決定的瞬間の一つである。 三つの主題が継起して、雰囲気をだんだん息苦しいものにする。 それから、めくるめくような下降がはじまり、よじれた小さな線のようなものが何度も音域を走り抜ける。
<中略>
それから、影の地帯をつぎつぎに離れてくる三つの主題が反復される。 ニ短調の悲劇的な主題が今やト短調で提示され、なおも痛々しく、だが大変優しく、歌う。 ここまでくると、第三主題がモーツァルト二十代から再び出現したようなカンタービレをもたらすことができる。 そしてやっと、ト長調への転調、太陽の最初の愛撫がくる。
<中略>
このアダージョのあと、メヌエットが大きな鎮静の出現を可能にする。
[オカール] pp.166-168
オカールに限らず、暗い年1790年の最後に位置するこの弦楽五重奏曲はモーツァルトにとって最後の大きな転回点であると考える人は多く、その中でやはりアダージョは特別なものと感じられるようだ。 ロジェ・ラポルトは次のように言っている。
ある人々、余りにも多くの人々は、創造者は他の人間には未知の歓喜に到達するのだ、と想像する。 しかし、全くその様なことはないばかりか、まさに逆に、作者が問いに付され、賭けに付されているのだということを、自分自身の作品の中で、また自分自身の作品によって見捨てられている、したがって「自分自身の作品」とももはや呼べないものによって見捨てられているも同然なのだということを理解するためには、このアダージョを聴く必要があり、また聴くだけで十分である。
[ラポルト] p.133
ただしラポルトはこの五重奏曲が完全な転回にはなっていないとも言っている。
K593のアダージョ楽章で、もしモーツァルトが絶望に最後の別れを告げたのであれば、彼はその後K594、すなわち自動オルガンのための『幻想曲』第一番を書かなかっただろう。 悲しげで精彩のない同作品は、1790年12月の半ばになってもモーツァルトが相変わらず消沈状態から抜け出していなかったことを物語っている。
同書 p.137
モーツァルトの作品には明暗あるいは陰陽が同居し、一瞬にしてそれが入れ替わることは珍しくない。 明るく軽快な雰囲気がふいに翳ったり、逆に、もうしばらく涙していたい者を置き去りにして何事もなかったかのように明るくなったりする。 それはモーツァルト独特の平衡感覚であるが、この曲もその一例であり、ただ「暗い年」の最後に生まれた作品だけに余計に特別な意味を持っているように思えるのかもしれない。

〔演奏〕
CD[WPCC-4123] t=26'10
ヒュープナー (va), バリリ弦楽四重奏団
1954年
CD[CBS SONY 75DC 953-5] t=25'43
トランプラー (va), ブダペスト四重奏団
1966年
CD[DENON 33C37-7965] t=26'44
スーク (va), スメタナ弦楽四重奏団
1983年

〔動画〕

 

 

Johann Peter Tost

1755 - 1831

ヨハン・ペーター・トストは1783年から1789年の間、エステルハージ侯爵に仕えていた第二ヴァイオリン奏者。 また、ウィーンの卸商組合委員だった。

ハイドンに弦楽四重奏曲を2組(1789年の作品51〜56と1790年の作品57〜62)注文したことでも知られる。 このことから彼は裕福な商人であったと思われ、したがってモーツァルトも2曲の弦楽五重奏曲(K.593 と K.614)で良い収入を得たと推測されている。 彼はエステルハージ公の家政婦だった女性と結婚し、ズナイム(現チェコ領ズノイモ)にある工場を親から継承した。 のちにパリへ移住し商人になったという。  


〔参考文献〕


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2019/04/07
Mozart con grazia