Mozart con grazia > リタニア
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リタニア(聖母マリアの祝日のために) K.195 (186d)

  1. Kyrie 主よ Adagio - Allegro ニ長調 4/4
  2. Sancta Maria 聖母マリア Andante ト長調 3/4
  3. Salus infirmorum 病むものたちの救い Adagio ロ短調 4/4 全休止せず次章へ
  4. Regina angelorum 天使たちの女王 Allegro con spirito ニ長調 3/4
  5. Agnus Dei 神の仔羊 ニ長調 4/4
〔編成〕 S, A, T, Bs, Chor, 2 ob, 2 hr, 3 tb, 2 vn, va, bs, og
〔作曲〕 1774年5月以前 ザルツブルク
1774年4月




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リタニアの第3作。 聖母マリアの祝日のためのものとしては「リタニア K.109」についで2作目。 自筆譜には1774年4月とあるという。 これら2つのリタニアは「ロレートのリタニア」と呼ばれることがある。 それは、聖母マリア巡礼の地(イタリア中部に位置する)ロレート Loreto のサンタ・カーザ聖母教会の銘文がこの曲のテキストになっていることによる。 また、タイトル Litaniae de Beata Maria Virgine の訳として「童貞聖マリア」と表記するものもある。 さらに Lauretanae を冠して「女王(または元后)童貞聖マリア」と表されることもある。 したがって「聖母マリア Sancta Maria のための」という表題は適切ではないかもしれないが、言い慣れた(聞き慣れた)表現であるので、ここではそのままにしておくことにする。 リタニアとは、ド・ニによれば

夕暮れになると連禱(先唱者が神や聖母マリアにたいする呼び掛けを行ない、会衆がそれに「われらをあわれみたまえ」、あるいは「われらのために祈りたまえ」を繰り返して応答する祈りの形式)を唱えるために集まる準典礼的な儀式は、18世紀には民衆に非常に好まれており、そのための信心会や信徒会といったものがあった。 モーツァルトは最も好まれていた2種類の連禱のために、それぞれ2曲ずつ作曲している。
[ド・ニ] p.53
という宗教曲であり、「モーツァルトが見せた進歩と独創的な個性の開花の過程は、ミサよりも連禱におけるほうが顕著である」という。 最初にリタニア K.109 が書かれたのは1771年、次のリタニア K.125 は1772年であったが、その後、ヒエロニムス・コロレド伯(40歳)がザルツブルクの新大司教に就任し、モーツァルトを取り巻く環境は大きく変った。 そして1773年にかけて父と二人で3回目のイタリア旅行をはたしたモーツァルトが前作 K.109 と同じテキストに対して書いたこの作品は内容的にもはるかに大きいものとなった。
彼は明らかに、歌詞の応答の繰り返しによる単調を避けるために、5つの楽章をコントラストのある書法を用いて、それぞれに異なった構造にしようとする配慮もしている。 キリエと「聖母マリア、われらのために祈りたまえ」の楽章がソナタ形式になっているのはその表われである。 「聖母マリア・・・」が交響曲の緩徐楽章だとすれば、キリエはその第1楽章のアレグロといった関係にある。
同書 p.56
続く第3楽章「Salus infirmorum 病むものたちの救い」についてド・ニは「その構成から見ても、まったくコンチェルトの一楽章のようで、歌詞の性格を非常によく表した短調の曲になっている」といい、モーツァルトはこのリタニアを「交響曲とコンチェルトの形式の折衷を狙ったようだ」と評している。 また、コーノルトは次のように要約している。
このリタニアは(K.109でも同様に)、当時一般的であった様式の混合を示す。 「キリエ」はソナタ楽章で、緩やかなテンポの序奏を伴う。 「病める人たちの恢復」と「アニュス・デイ」は合唱によるポリフォニックな緩徐楽章であり、深い感情を湛えたソプラノの独唱で始まる「アニュス・デイ」は、ザルツブルク時代に書かれた珠玉の教会音楽のひとつである。 「聖母マリア」と「天使たちの元后」は、明らかにイタリア・オペラの伝統から影響を受けている。
[全作品事典] p.36
楽器編成も拡大したことにより、器楽が雄弁に語るようになり、また「聖母マリア」ではソプラノが、「天使たちの女王」ではテノールが、「神の仔羊」では再びソプラノが、それぞれ名人芸的独唱を披露して、曲全体がイタリア・オペラの影響を受けた世俗的な華美さに溢れた作品として評価が高い。 その器楽と声楽との関係についてアインシュタインは次のように評している。
この曲は新しい音言語において、コンチェルタント・シンフォニー的なものといっそう繊細な《労作》との結合において作曲されている。 だから、法外な誤解を招く危険さえ避けられるならば、それを《ベルゴレージ》と《ミヒャエル・ハイドン》との結合と言うこともできよう。
[アインシュタイン] p.450
さらに
モーツァルトはアグヌス・デイとして、それまでに書いたうちで最も超現世的なアダージョ楽章を書き、ソプラノ独唱と応答し終結するトゥッティを用いている。 この独唱部は人声よりむしろクラリネットにふさわしいし、また、これは純正な教会様式というよりナポリ学派のオペラ様式である。
(中略)
聖母連禱は親しみのこもった礼拝であって、夕映えのなかにほのかに燃え輝くこの曲は、まさに至福をもたらす祈りとして心を奪うものを持つ。
と讃えている。

3回目のイタリア旅行から帰った(1773年3月)あと、休む間もなく7月にはモーツァルト父子は3回目のウィーン旅行にでかけている。 そして9月、父子は帰郷し、月末にモーツァルト一家はゲトライデガッセ(家主ハーゲナウアー)からハンニバル(現在のマカルト)広場にあるもっと大きな住居に引越した。 そこは「舞踏教師の家(タンツマイスターハウス)」と呼ばれ、現在はモーツァルト博物館となっているところである。 年が明けて1774年12月、ミュンヘンのマクシミリアン・ヨーゼフ3世から依頼されていた謝肉祭用のイタリア語によるオペラ・ブッファ『偽の女庭師』(K.196)初演のため、また旅行に出るが、それまでのザルツブルクにいる間(1773年10月から1774年12月まで)の作曲の事情についてはまったくわからない。 この曲の成立については、「リタニア K.109」と同様に、聖母マリアの月とされている5月の晩課の典礼のために書かれたのだろう。

〔演奏〕
CD [PHILIPS 422 749-2〜753-2] t=28'18
Renate Frank-Reinecke (S), Annelies Brumeister (A), Eberhard Buchner (T), Hermann Christian Polster (Bs), Leipzig Radio Chorus, Herbert Kegel (cond), Leipzig Radio Symphony Orchestra
1974年11月、ライプツィヒ
CD [UCCP-4081] t=28'18
※上と同じ
CD [WPCS-4094] t=29'58
ボニー Barbara Bonney (S), マグヌス Elisabeth von Magnus (A), ハイルマン Uwe Heilmann (T), カシュマーユ Gilles Cachemaille (Bs), アルノルト・シェーンベルク合唱団 Arnold Schoenberg Chor, アーノンクール指揮 Nikolaus Harnoncourt (cond), ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス Concentus musicus Wien
1990年12月、ウィーン
CD [AUDIOPHILE CLASSICS APC-101.048] t=25'50
Dita Paegle (S), Antra Bigaca (A), Martins Klisans (T), Janis Markovs (Bs), Riga Radio Chorus, Sigvard Klava (cond), Riga Musicians
1993年

〔動画〕

〔参考文献〕

 

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2013/03/03
Mozart con grazia