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アリア「あまたの苦難に会いて」 K.88 (73c)

〔編成〕 S, 2 ob, 2 hr, 2 tp, 2 vn, 2 va, vc, bs
〔作曲〕 1770年2月か3月 ミラノ
1770年2月



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1770年3月



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14才の少年モーツァルトは、1769年12月13日、父に連れられて初めてのイタリアへの旅に出た。 行く先々で賞賛され、1回目のイタリア旅行は大成功に終り、1771年3月28日ザルツブルクに帰郷する。 この曲はミラノに滞在していた1770年1月23日から3月15日までの間、たぶん3月初に作曲されたものと推測されている。 当地ではカール・ヨーゼフ・フィルミアン伯爵(当時54歳)に歓待され、2月7日の演奏会ではメタスタージオの作品集9巻を贈られた。 モーツァルトの見事な演奏を聴くために集まってくる王侯貴族たちのために、その後も何度も伯爵邸で演奏会が催されていた。 父レオポルトが郷里の妻へ書き送った1770年2月27日の手紙には、

四旬節の第二週か火曜日には、神のご加護により、ミラノを発ち、パルマに向かうことになるでしょう。 私たちはもっと前に行きたいのですが、フィルミアーン伯爵閣下が四旬節第一週にお邸で貴婦人がたのための大音楽会を催されるお考えですし、ほかの用事もすませてしまわなければなりません。
(中略)
ヴォルフガングはアリアを2曲作曲中です。
[書簡全集 II] pp.72-73
とあり、その2曲とはどちらもメタスタージオ原作のテキストで、『デモフォオンテ』からとられた「哀れ幼な子よ」(K.77)と『アルタセルセ』からとられたこのアリアである。 フィルミアン伯爵(Karl Joseph Graf Firmian, 1759-82)は芸術家のよき理解者として知られていたオーストリア領ロンバルディア地方の総督であり、要人の訪問などの機会に自身の邸宅で音楽会がよく催されていた。 3月13日にはさらにレオポルトは
ヴォルフガングが、昨日フィルミアーン伯爵のお邸であった演奏会用に、アリアを3曲とヴァイオリン伴奏つきのレチタティーヴォを1曲作曲しなければならなかった。
[書簡全集 II] p.78
と書いている。 この音楽会(3月12日)用の4曲のアリアについて、アインシュタインは
  1. アリア「願わくは、いとしい人よ」 K.78 (73b)
  2. アリア「あまたの苦難に会いて」 K.88 (73c)
  3. レチタティーヴォ「おお、大胆なアルバーチェよ」とアリア「この父の抱擁ゆえに」 K.79 (73d)
  4. レチタティーヴォ「哀れなる私」とアリア「哀れ幼な子よ」 K.77 (73e)
と推測していた。 しかし新全集では作品の様式の違いから、「願わくは、いとしい人よ」(K.78)と「おお、大胆なアルバーチェよ、この父の抱擁ゆえに」(K.79)の2曲は1765年から66年の間にオランダで作曲されたと改めている。 かわりに紛失した を3曲のアリアの一つとしている。 そして「ヴァイオリン伴奏つきのレチタティーヴォ」とはアリア「哀れ幼な子よ」(K.77)のレチタティーヴォ・アコンパニャートだろうと推定している。

このアリアが誰のために作曲したのかは不明だが、アインシュタインは「理想の歌手として、モーツァルトはマンズオリを念頭に置いていた」と言っていた。 レイバーンも「疑いもなく、この曲をカストラートの名人技的な歌唱に合せて作曲した」と言い、次のように説明している。

最も野心的なものでもあり、開始のレチタティーヴォを欠いているにもかかわらず、全体で266小節もの長さをもつ。 18世紀のイタリアにおいて、この種の大規模なオペラ・セーリアのアリア、すなわち「アリア・モヌメンターレ(記念碑的アリア)」は、貴族のオペラ愛好者たちから大いに賞賛されていた。
[全作品事典] p.104
メタスタージオの『アルタセルセ』は、1730年のカーニヴァルに、ヴィンチ(Leonardo Vinci, 1690-1730)の作曲によりローマで上演され、その後もハッセなど多くの作曲家が取り上げた悲劇。 アルタセルセとはペルシャの王セルセ(クセルクセス)の王子の名前である。 劇の内容は、王位を狙ってセルセを暗殺した近衛隊長アルタバーノは二人の王子ダーリオ(兄)とアルタセルセ(弟)の間を引き裂く陰謀を企てるが失敗し、最後はアルタセルセが王位を継ぐというもの。 第1幕第2場で、アルタバーノが王セルセを殺害し、血のついた剣を息子アルバーチェに手渡すところから悲劇が始まる。 アルバーチェには恋人マンダーネがいたが、彼女はセルセの娘であり、その愛情と、父の裏切りと、自分の身に降りかかる裁きに対する怖れとの間で狼狽する。 そこで歌われるのがこのアリアである。 暗殺の真相を知らず、アルタセルセは投獄されたアルバーチェの裁きをアルタバーノに委ね、死刑が宣告されることになる。 それを雄々しく受け入れ、無実の罪で死につくアルバーチェが歌うのがレチタティーヴォ「おお、大胆なアルバーチェよ」とアリア「この父の抱擁ゆえに」(K.79)である。

これらのアリアは、少年モーツァルトがフィルミアン伯爵から贈られたメタスタージョ著作集から選んで曲をつけたものであるが、どれも緊迫した場面ばかりである。 それを14才の少年が自分だけの判断で選んだのだろうか? 父レオポルトの意志が働いていたに違いない。 フィルミアン伯爵をはじめ、音楽会に集まる貴族たちはメタスタージオの『アルタセルセ』をよく知っていて、ハッセが作曲したオペラなどを見たことがあっただろう。 その中の名場面に曲を書くことで、当時の大作曲家たちに負けない非凡な能力をもって少年モーツァルトが音楽に通暁していることをレオポルトは誇示したかったに違いない。 モーツァルトの方でもイタリア旅行中に既に6度か7度もオペラを観に行っていたといい、鋭い観察眼で歌手たちの力量を見ていた。

(1770年1月26日)
マントヴァのオペラはすてきでした。 『デメートリオ』を上演していました。 プリマ・ドンナはよく歌いますが、静止したきりです。 演技しないでただ歌っているところだけを見たら、彼女が歌っているとは思えないでしょう。 なにしろ彼女は口を開けられないのですが、どんな音でもひーひーと出します。 でも、こういうのは、ぼくらにとって耳新しいものではありません。 第二女性歌手はまるで擲弾兵のような大女で、声も力強く、しかも初舞台であるだけに、まったく歌は悪くありません。 男性第一歌手は、立派な音楽家で、見事に歌いますが、声にむらがあります。
[書簡全集 II] p.60
そして歌手の名前と、その演技について厳しい評価を次々に並べて報告している。 それだけに、力量のある歌手を想定して、モーツァルトは(いつものように)その時点で自分が創り出せる最高の音楽を書き残した。 3月12日の音楽会で歌手が誰だったのか、どんなふうに歌ったのか、記録が残っていないのが残念である。

モーツァルトにすっかり惚れ込んだフィルミアン伯爵はカーニバル・シーズンに上演するオペラの作曲を依頼したのであった。 それがラシーヌの台本によるオペラ・セリア『ポントの王ミトリダーテ』(K.87)であるが、いかに稀有の天才であろうと、音楽の本場イタリアが少年作曲家にお株を奪われるのは面白いはずがなく、オペラ上演に向けてモーツァルトは様々な妨害にあうことになる。

〔歌詞〕
Arbace
Fra cento affanni e cento
Palpito, tremo e sento
Che freddo dalle vene
Fugge il mio sangue al cor.
Prevedo del mio bene
Il barbaro martiro,
E la virtù sospiro,
Che perde il genitor.
アルバーチェ
あまたの苦難に
震えながら、
静脈から私の冷たい血が
心臓へと流れ込む
私は最善を期待する
残酷な刑罰
名誉のため息
父を失ってしまった

〔演奏〕
CD [Brilliant Classics 93408/6] t=10'12
European Chamber Soloists, Nicol Matt (cond)
2006年

〔動画〕

その他

〔参考文献〕

 

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2013/02/10
Mozart con grazia