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オペラ・セリア「ポントの王ミトリダーテ」 K.87 (74a)

Opera seria Mitridate, rè di Ponto
〔編成〕 2 fl, 2 ob, 2 hr, 2 vn, 2 va, vc, bs
〔作曲〕 1770年9月29日〜12月末 ボローニァ、ミラノ

台本はラシーヌ(Jean Baptiste Racine, 1639-99)の悲劇。 それをもとにチーニァ・サンティ(Vittorio Amedeo Cigna-Santi, 1725-85)が作詞。 当時オーストリア領のミラノの総督フィルミアン伯爵(Karl Joseph Graf Firmian, 1716-82)の注文による。 序曲と以下の3幕25曲から成る。

第1幕

  1. アリア(As)「迫り来る運命から」 Al destin, che la minaccia
  2. アリア(Si)「この心は安らかに耐えよう」 Soffre il mio cor con pace
  3. アリア(Ar)「憎しみの心を抑え」 L'odio nel cor frenate
  4. アリア(As)「悲しみにこの胸は脈打ち」 Nel sen mi palpita dolente
  5. アリア(Si)「私は行きます」 Parto, nel gran cimento
  6. アリア(Fa)「たとえあの厳しい父が来て私を脅し、怒りに身を震わそうとかまわない」
     Venga pur, minacci e frema
  7. 行進曲 K.62
  8. カヴァータ(Mi)「月桂冠を頂いて」 Se di lauri il crine adorno
  9. アリア(Is)「愛する方を目の前にして」 In faccia all'oggetto
  10. アリア(Mi)「恩知らずの反逆者は」 Quel ribelle e quell'ingrato
第2幕
  1. アリア(Fa)「私の過ちを明るみに出しなさい、私の処罰を急ぎなさい」
     Va, l'error mio palesa
  2. アリア(Mi)「お前はわしに誠実だ」 Tu, che fedel mi sei
  3. アリア(Si)「愛する人よ、あなたから遠く離れ」 Lungi da te, mio bene
  4. アリア(As)「私の胸を締め付ける」 Nel grave tormento
  5. アリア(Is) So quanto a te dispiace
  6. アリア(Fa)「私は罪人です。非を認めます」 Son reo; l'error confesso
  7. アリア(Mi)「もう、わしは慈悲など捨てた」 Già di pietà mi spoglio
  8. 二重唱(As,Si)「私がもう生きていられず」 Se viver non degg'io
第3幕
  1. アリア(Is)「ご存じですね、恋した方ゆえに」 Tu sai per chi m'accese
  2. アリア(Mi)「わしは最後の運命に向かって行く」 Vado incontro al fato estremo
  3. アリア(As)「青ざめた霊たちよ」 Ah ben ne fui presaga!...Pallid'ombre
  4. アリア(Si)「非情な運命の厳しさが」 Se il rigor d'ingrata sorte
  5. アリア(Ma)「王国を治めたいのなら」 Se di regnar sei vago
  6. アリア(Fa)「この目には曇りはすでにない。今や私の理性が」
     Già dagli occhi il velo è tolto
  7. 五重唱(Si, As, Fa, Is, Ar)「カンピドリオに負けはしない」 Non si ceda
登場人物(上記かっこ内の記号)と初演(1770年12月26日ミラノの大公宮廷劇場)での配役 という人間関係がなんとも複雑であり、これだけで14歳の少年には手に余ると言ってよい。 しかもその少年はまだ一度もオペラ・セリアを書いたことがないばかりか、イタリア語オペラとしては12歳のときに『見てくれのばか娘』という「ひどく支離滅裂なドタバタ劇」に曲をつけたことがあるだけだった。 初演の配役たちがこの「よそ者」の少年の力量を疑ったのは確かであり、それぞれが厳しい注文をつけて曲を書き直しを要求したことが知られている。 そのため、「ポントの王ミトリダーテ」には他のオペラにはない大量の異稿・スケッチ・断片などが残されている。

まず、このオペラが作られるまでの状況を日を追ってみると、以下のとおりである。

モーツァルト父子がイタリア旅行中の1770年3月12日、ミラノのフィルミアン伯爵(54歳)邸でコンサートが開かれた。 そのときの演奏に伯爵は感動し、14歳の少年モーツァルトにカーニバル・シーズンに上演されるオペラの作曲を依頼したのであった。 ただし「その際フィルミアンは、この天才児を敢えて試験して見るための帝室の許可を、ヴィーンから得ることを怠らなかったにちがいない」とアインシュタインは言う。

わたしの推測では、当時最も名声を博していたイタリア・オペラの作曲家ヨーハン・アードルフ・ハッセが、ヴェネツィアのオルチス修道院長にあてた二通の書簡(1769年9月30日と10月4日)のなかで少年に下した有名な判定も、あの注文と関係があったのであろう。 ハッセはレーオポルトのイタリア旅行の計画を知っていた。 そしてレーオポルトはこのような旅行の最高の勝利、つまり「契約」を息子のために取りたいという念願を口にせずにはいなかったであろう。 そして慎重なヴィーンの宮廷はハッセに照会することによって確信を得ようとしたのであった。
[アインシュタイン] p.538
そしてモーツァルト父子は伯爵が書いてくれたボローニャのパラヴィチーニ伯爵あての推薦状を持ってミラノを出発。 ボローニャ滞在のレオポルトはザルツブルクの妻に次の手紙を書き送ったことで、いよいよオペラ作曲の話は現実のものになった。
1770年7月






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1770年7月28日
昨日、私たちはオペラの台本と歌手たちの名前お手に入れました。 オペラは『ポントの王ミトリダーテ』といいます。 この作品はトリノの詩人ヴィットーリオ・アメデーオ・チーニャ・サンティというひとが書いたもので、1767年同地で上演されました。
[書簡全集 II] p.170
これにより、台本を7月27日に受取ったことがわかる。 ただし、作曲に本腰を入れて着手したのはさらに2ヶ月以上もあとになる。 手紙のなかでトリノで1767年に上演されたというのはガスパリーニの作曲によるものであった。 史実に基づき、一筋縄ではゆかない人間の心理を描いたラシーヌの悲劇に14歳のヴォルフガングが曲を作るのは早すぎたとも言われている。
誰か見識のある人が --- レーオポルトは功名心に眼がくらんで見識を失っていた --- 少年にこう言うべきであったろう、「手を引きなさい! お前の力でこなせるものではないのだよ。 もっと成熟するのを待ちなさい。 それはお前が将来とも手に入れることのできる最高の、オペラ・セリアのリブレットなのだよ!」と。 そう言ったとしたら、おそらくそれが最高の言葉だったであろう。
[アインシュタイン] p.539
以上のように ということになるが、年末のカーニバルのシーズンまで、作曲の時間はあまりなかった。 しかも、台本を受け取ったのちも、モーツァルトはボローニャでマルティーニ神父の指導を受けながら10月9日のアカデミア・フィラルモニカの試験に備えていた。 その結果はよく知られているように、アンティフォン「まず神の国を求めよ」(K.86)を、並の人なら3時間以上かかるところ、半時間で仕上げて合格。 満場一致で名誉会員に推されたのであった。 そして13日にボローニャを出発し、18日にミラノ到着。 それから12月上旬までの約1ヶ月半の間に集中して作曲が行なわれ、ほとんど1日に1〜2曲というスピードで作曲したことになるが、少年作曲家は書き疲れて指が痛いと訴えている。
1770年10月20日
なつかしいママ、ぼくは沢山は書けません。 レチタティーヴォを沢山書いたため、指がとても痛いのです。 ぼくのため、ママ、お祈りをして下さい --- オペラがうまく行きますように、そしてぼくたちみんなが一緒に仕合せに暮らすことができますように。
[手紙(上)] p.23
さらに不幸なことに、さまざまな障害・妨害もあった。 レオポルトは妻へ次のようにボヤいている。
1770年12月1日
おまえはもうオペラができ上がっていると思っていることだろうが、大間違いです。 もしそれが私たちの息子のことだったら、オペラは二つは仕上がっていることでしょう。 でも、イタリアじゃ万事がまったくばかげた進み具合です。 それに、すっかりここで手紙に書くとしたら長たらしくなりすぎるので、いずれ全部話してあげます。 この手紙を書いている現在、プリモ・ウォーモはまだ当地に着いていません。 今日には確実に到着するはずです。
[書簡全集 II] p.228
しかし障害は外にあるだけでなかった。 レオポルトはボローニャ滞在中、めまい、坐骨神経痛、左肩のリューマチ、そして何よりも足にできた腫瘍に苦しんでいた。 特に左足の踵と指が夜どおし痛み、外出にも苦労するほどであった。 ミラノに向うまでにだいぶ回復したようであるが、冬の寒さに備えて防寒にはそうとう気を使っていた。 また、少年モーツァルトは伸び盛りの時期にあり、服のサイズが体に合わなくなっていたうえに、声変わりの時期でもあったので、自分の歌を声に出して歌えないことに苛立っていた。 それでも眠気やら疲れやらとたたかいつつ作曲に没頭していたことがこの時期の手紙から読み取れる。 彼は類稀れな天分で、内と外との障害が重なるなかで、次々と曲を書いていたのである。 歌手たちがそろわないなかで作曲しなければならず、そのため書き直しをせざるを得ないことも多々あったにもかかわらずである。
モーツァルトのオペラの中で、個々の番号曲について、これほどまで多くの異なった稿、スケッチ、断片、異文がある作品は、ほかにない。
(中略)
そうこうしている間にも、若き作曲家の背後で陰謀がめぐらされていた。 しかもドイツ人がイタリア・オペラを書けるはずがない、なにしろ、たしかにすばらしい名手だと認められているものの、伝えられるところによれば「劇場に必要な陰影法」に欠けているのだから、といったことも言い出されていた。
[全作品事典] p.66
どんな陰謀があったのかレオポルトが克明に書き残してくれているが、たとえば次のような具体的な事例をのちにマルティーニ神父に宛てて書いている。
1771年1月2日
彼らは音符のただひとつも見ぬ前から、この作品が野蛮なドイツ音楽であって、秩序もなければ深みもなく、オーケストラで演奏できないものだと言いふらしまして、そのため、ミラノ市民の半ばまでをして、第一オペラがまるで継ぎはぎだらけの作品だと思い込ませるほどでありました。 ある者は巧妙にもプリマ・ドンマのもとに、すべてトリノのガスパリーニ師の作品になる彼女用のアリア全曲ならびに二重唱までも、すなわちトリノ用に作られたアリアを持ち込み、良いアリアなどただのひとつも書けないはずのこの小僧のアリアなど一曲も受けつけずに、これらのアリアを取り上げるよう彼女を説得したのでした。
[書簡全集 II] p.241
並みの人間なら精神的にも肉体的にも困憊し、大曲の作曲を投げ出すところだろうが、モーツァルトの才能は計り知れない。 さまざまな苦労が実り、初演は12月26日、ミラノの大公宮廷劇場(テアトロ・レッジオ・ドゥカーレ)で行なわれた。 その初演にこぎ着けるまでの練習などについては、「書簡全集 II」(p.239以降)に詳しい。 余談であるが、その劇場は1717年にフランチェスコ・ガスパリーニ(Francesco Gasparini, 1668-1727)のオペラ『コンスタンティーノ』でこけら落としされた由緒深い劇場であったが、1776年に火災、全焼してしまったという。
1770年12月





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さて、実際に練習が始まると歌手全員が満足し、オーケストラの全員も「このオペラは弾きやすく、音が澄んでいて豊かだ」と断言したことから、それまで中傷をやめなかった人たちは口を閉ざさるを得なかった。 そして上演は大成功だった。

結果として中傷屋は根こそぎにされる。 このオペラは22回も続けて上演されたのである(そのうち最初の3回はモーツァルト自身がチェンバロに坐って指揮をした)。
[ソロモン] p.134
この作品で、レオポルトは先に100ドゥカーテンを受取る契約書を手にし、作曲後は1625リラ(450グルデン)を受領しただけでなく、ミラノの3ヶ月間の滞在は無料になったという。 当然のことながら、レオポルトは妻に手紙にしっかりと書いている。
1770年12月29日
おかげさまで、オペラの初演は26日におこなわれ、ひろく喝采を博しました。 しかもミラノではかつて起こったことのない二つのことが起こったのです。 つまり、(初演の晩の慣例に反して)プリマ・ドンナのアリアが一曲アンコールされたこと。 初演ではいつもはけっしてアンコールはしないものだからです。 それに第二点は、最後の幕の2、3のアリアをのぞいて、ほとんどすべてのアリアで、アリアが終わると、びっくりするような拍手喝采と《マエストロ万歳》、《マエストリーノ万歳》という叫び声が続いたことです。
[書簡全集 II] p.228
さらに27日木曜日、29日土曜日にも好評のうちに再演された。 翌1771年1月2日のミラノ新聞には初演の模様が次のように報じられている。
去る水曜日、大公付劇場はオペラ『ポントの王ミトリダーテ』の上演を再開した。 趣味豊かな舞台装置だけでなく、優れた音楽、その豊かな表現能力で大方の賞賛を博している。 アントーニア・ベルナスコーニ女史の歌う数曲のアリアは極めて情感豊かであり、心をゆさぶるものがある。 わずか15才の若い楽長は自然の美を見ており、それを類いまれな程優美に表現している。
[ドイッチュ&アイブル] p.102
当時の音楽の本場イタリアにおいて、豊かな表現能力を発揮して耳の肥えた聴衆を感動させることができたのは歌手の優れた力量によるものであることは当然であるが、その以前に、歌われる言葉を母国語のように見事に操ることに成功した少年作曲家の才能に驚かざるを得ない。
もしイタリア語に対する深い知識がなかったなら、彼の完熟したイタリア・オペラはなかったであろう。 そこで明白なことは、モーツァルトがこの偉大な国語の、母音や子音のみならず、すべてのニュアンスに対して、繊細な感受性を働かせていることである。
[ランドン] p.106

もちろん後世の評価も高く、「新モーツァルト全集」の編集者の一人アンガーミュラーは次のように賞賛している。

「オペラ・セーリア」は様式的な統一性を必要とするが、このことにより、実験の余地はなくなる。 音楽、歌詞、衣装、舞台装置、動作、舞台、観客席はいずれも、すべてのバロック芸術の様式的な原則に従属している。 14歳のモーツァルトは『ポントの王ミトリダーテ』を作曲することにより新たな作曲の領域に踏み込んだのだが、その仕事を見事にこなした。 慣習を否定することや、ジャンルの類型を壊すことなく、彼はオペラ・セーリアというジャンルに親しみ、要求どおりに作品を提供したのである。 実験を必要とすることなく、モーツァルトは国際的なオペラの世界で、そしてヨーロッパ一流の大オペラ劇場で、すぐに大成功を収めたのであった。
[全作品事典] pp.66-67
こうして少年モーツァルトの第1回イタリア旅行は大成功のうちに終った。 ザルツブルクに帰郷したのは3月28日である。 そしてすぐ、短いオペラ(劇場用セレナータ)『アルバのアスカニオ』(K.111)の注文を受け、8月には第2回のイタリア旅行をすることになる。

〔あらすじ〕

小アジアの国ポントの王ミトリダーテがローマとの戦いに敗れて帰国するところから劇は始まる。 王が戦死したとの噂から、2人の息子ファルナーチェとシファレは争う。 王妃アスパージアはシファレに愛を打ち明けるが、王ミトリダーテへの義務を果たすために、去って欲しいと頼む。 シファレは応じて、別れを告げる。 帰国した王は、ローマと通じていたファルナーチェの裏切りを知り、死刑を宣告する。 鎖に繋がれたファルナーチェはアスパージアとシファレの関係を王にばらしてしまう。 息子たちと王妃アスパージアの背信に激怒した王は慈悲を捨てたと歌う。 そこへローマが攻め込んで来る。 シファレは父のために戦い、親子の和解が成る。 ファルナーチェはローマ人マルツィオに助けられるが、良心の呵責から、やはり父のためにローマと戦う。 二人の息子の忠信に安心して王は倒れる。

〔演奏〕
LD [BMGビクター BVLO-14〜15](2枚組) t=153分
グシュルバウア指揮リヨン・オペラ座管弦楽団、演出 ファル Jean-Claude Fall、1986年
(As)ケニー Yvonne Kenny (S)、 (Si)パトナム Ashley Putnam (S)、 (Fa)ブーザー Brenda Boozer (Ms)、 (Is)ロザリオ Patricia Rozario (S)、 (Ar)デュボスク Catherine Dubosc (S)、 (Mi)ブレイク Rockwell Blake (T)、 (Ma)パピス Christian Papis (T)

CD [PHILIPS 28CD-3235] (13) t=8'16
キリ・テ・カナワ Kiri Te Kanawa (S), テイト指揮 J. Tate (cond), イギリス室内管弦楽団 English Chamber Orchestra
1987年6月、ロンドン
CD [RCA BVCC-715] (6) t=7'14, (16) t=4'03, (24) t=8'32, (11) t=3'13
シュトゥッツマン Nathalie Stutzmann (contralto), スピヴァコフ指揮 V. Spivakov (cond), モスクワ・ヴィルトーゾ室内管弦楽団 Moscow Virtuosi
1994年7月、ノイマルクト
CD [DECCA 466 196-2] (6) t=7'06
ショル Andreas Scholl (counterT), ノリントン指揮 Sir R. Norrington (cond), Orchestra of the Age of Enlightenment
1998年

〔動画〕

関連

 

交響曲 「ミトリダーテ」ニ長調

  1. Allegro
  2. Andante grazioso
  3. Presto

〔演奏〕
CD [ポリドール FOOL-20364] t=5'51
ホグウッド指揮エンシェント室内管弦楽団
1978年頃
※ドナウエッシングで発見された写譜により演奏

〔動画〕


〔参考文献〕

 

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2017/09/03
Mozart con grazia