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アリア「もし勇気と希望が」 K.82 (73o)

〔編成〕 S, 2 fl, 2 hr, 2 vn, va, vc, bs
〔作曲〕 1770年4月25日 ローマ
1770年4月






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14才の少年モーツァルトは、1769年12月13日、父に連れられて初めてのイタリアへの旅に出た。 行く先々で賞賛され、1回目のイタリア旅行は大成功に終り、1771年3月28日ザルツブルクに帰郷する。 この曲はローマに滞在していた1770年4月に作曲された。 父レオポルトはいつものように旅先からせっせと手紙を郷里に書き送っている。

1770年4月21日ローマからザルツブルクの妻へ
イタリアの奥地に来れば来るほど、驚きがいっそう募ってきます。 ヴォルフガングの知識も進歩しないままではなく、日一日と増えているので、いちばん偉い専門家たちも、また巨匠たちも、自分たちの驚嘆の念を表明し、公表するにふさわしい言葉が見つかりません。
[書簡全集 II] pp.111-112
この手紙で、少年モーツァルトは姉ナンネルに追伸を書いている。
マンツォーリは、ぼくのオペラで歌うことをミラノの人たちと契約しています。 そのために、彼はフィレンツェで4、5曲のアリアと、ぼくの2、3曲とを歌ってくれました。 ぼくはそれをミラノで作曲しなくてはなりませんでした。 なにしろミラノの人は、ぼくの劇場作品をぜんぜんきいたことがなかったので、ぼくがオペラを書けることを示すためです。 マンツォーリは1000ドゥカーテンを要求しています。 あのガブリエーリがたしかに来るかどうかもわかりません。 デ・アミーチスが歌うだろうと言ってる人もいます。 ぼくらは彼女にナポリで会うことになっています。 彼女とマンツォーリが歌ってくれるといいのですが。 そうなれば、二人ともぼくらの良い友人となるでしょう。 台本もまだ見せてもらっていません。 ぼくはメタスタージョのある作品を、ドン・フェルディナンドとフォン・トロイヤーさんにすすめました。 ちょうどいま、ぼくはアリア『もし勇気と希望が』にとりかかっています。
[書簡全集 II] p.113
ここに書かれているメタスタージョの「ある作品」とは『デモフォンテ Demofoonte』である。 この手紙によって、この曲はカストラートの名歌手マンツォーリのために作られたと思われるが、あるいはソプラノ歌手デ・アミーチスのためであるかもしれない。
デ・アミーチスは優れた歌唱力を持っていたようで、モーツァルトは「見事だ」と常に高く評価し、彼女のためには難しいパッセージをつけて作曲するほどであった。 モーツァルト一家が1763年に西方への大旅行に出たとき、その年の8月にマインツで彼女と出会っていたが、そのときデ・アミーチスはロンドンからイタリアに帰る途中であり、それから7年後の1770年にイタリアで再会したのであった。 また、マンツォーリとはやはり西方への大旅行の折、1765年にロンドンで出会い、少年モーツァルトは歌唱指導を受けたことがあった。
グリムの『文芸通信』より、1766年7月15日
この素晴しい少年は今9才である。 彼はまだ全く成人とは言えない。 しかし音楽の点では驚異的な成長を遂げている。
(中略)
彼はロンドンで一冬の間マンツォーリを聞いて来た。 そしてこれを充分に利用している。 その声はまだ極めて弱いが、感情も豊かに歌っている。 しかし何より信じられないのは彼が最高度に所有するあの和声と巧妙なパッセージに関する深い知識である。
[ドイッチュ&アイブル] p.47

歌詞は『デモフォンテ』第1幕第13場で、神殿の生贄にされる恋人のために天に祈るティマンテの歌である。 曲はヘ長調(Andante)で始まり、中間部はニ短調(Allegro moderato)に変り、もとに戻る。

余談であるが、モーツァルト父子のイタリア旅行ではミラノ滞在中に、オーストリア領ロンバルディア地方総督府長官フィルミアン伯爵(Karl Joseph Graf Firmian, 1716~82, 当時54歳)の歓待を受け、その縁のお陰で作曲の機会に恵まれていた。 1770年2月7日、伯爵は少年モーツァルトに見事な装幀のメタスタージョ著作集9巻をプレゼントしてくれたという。 この中の『デモフォンテ』からモーツァルトは5曲のコンサート・アリアを作曲した。

〔歌詞〕
Se ardire e speranza
Dal ciel non mi viene
Mi manca constanza
Per tanto dolor.
La dolce compagna
Verdersi rapire
Udir che si lagna
Condotta a morire
Son smanie, son pene
Che opprimono un cor.
もし勇気と希望を
天が私に授けなかったら
かくも大きな苦悩には
耐えられなかっただろう

〔演奏〕
CD[Brilliant Classics 93408/1] t=6'42
Francine van der Heyden (S), European Sinfonietta, Ed Spanjaard (cond)
2002年8月、Nieuwe Kerk, The Hague, The Netherlands

〔動画〕

 

 

Giovanni Manzuoli

1725 ? - 80 ?

フィレンツェ出身。 当時もっとも有名なカストラート歌手。 1764年から65年ロンドンで活動していた(そこでは Manzoli とも呼ばれていた)とき9歳の少年モーツァルトと出会っている。 チャールズ・バーニーは次のように讃えている。

ファリネルリの時代このかた、われわれのステージで聴きえた最も力強く、声量ゆたかなソプラノである。 また彼の歌唱態度は堂々として、趣味と気品に溢れていた。
[アインシュタイン] p.318
Manzoli's voice was the most powerful and voluminous soprano that had ever been heard on our stage since the time of Farinelli; and his manner of singing was grand and full of dignity.
しかし自己の最盛期を過ぎたと自覚したのか、1770年(45歳頃)イタリアに帰り、フィレンツェ大公に仕える宮廷室内歌手となり、旅行中のモーツァルト父子と再会。 1771年にミラノで初演されたモーツァルトの『アルバのアスカーニョ』(K.111)で主役を歌っている。
かつての華々しい活躍が忘れられず、名誉と金銭の欲望が増していったようである。 最後は年齢による衰えからくる醜態をさらし、バーニーに誉められた「溢れる趣味と気品」はどこへやら、15歳のモーツァルトから次のように言われる始末だった。
1771年11月24日または23日、ミラノからザルツブルクの姉へ
あらゆる人びとからもっとも賢いカストラートとみなされ、遇されてきたマンツオーリさんが、あの老齢で、愚かさと高慢の見本を示しました。 彼はオペラのために500ジリアートで契約していましたが、セレナータについて契約書にはふれていなかったので、さらにセレナータのために500ジリアート、つまり全部で1000ジリアートを要求しました。 宮廷は彼に、ただ700とそして美しい金の箱をそえて贈りました。 (ぼくはそれで充分だと思います。) しかし、カストラート氏はその700ジリアートを金の箱とともに返して、何ももらわずに立ち去りました。 この話がどんな結末となるかは知りません。 困ったことだと思います。
[書簡全集 II] p.318

 

〔参考文献〕

 

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2015/02/22
Mozart con grazia