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ピアノ協奏曲 第9番 変ホ長調 「ジュナミ」 K.271
〔作曲〕 1777年1月、ザルツブルク |
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フランスの舞踏家ノヴェールの娘で優れたピアニストだったジュナミ夫人(Victoire Jenamy)のために作曲。
しかし、よく知られているように次の伝説が最近までまかり通っていた。
1777年1月ころ、フランスの女流ピアニスト・ジュノム嬢が演奏旅行中にザルツブルクを訪れたという。
そして、ザルツブルクを離れられず悶々としていたモーツァルトの霊感を刺激し、大胆な独創性をもつフランス風のこの協奏曲が生まれたということから、従来この曲は「ジュノム」と呼ばれていた。
モーツァルトがこの曲をかいたのは、1777年の1月、ザルツブルクでだが、そのころ彼は、ザルツブルクの小宮廷での生活にすっかり嫌気がさし、どこかに新しい生活の道がないかと、そのことばかり考えているような時であった。 事実、その年の秋、彼は大司教に辞表を出し、旅に出てしまう。 例のマンハイムからパリへと続く大旅行である。 そういうとき、フランスから来たピアニストでかなり才能のあったジュノムという女性がザルツブルクにたちよった(1776年の末とも1777年の1月ともいわれる)ので、彼女のためにかいたのが、この協奏曲である。 そういうきっかけもあり、またモーツァルトがザルツブルクを離れる目的地としてパリも考えのなかにはいっていたということもあって、この曲には当時のパリの趣味がとり入れられている。 ジュノムが持参したいろいろの楽譜をみせてもらって、パリに行く前すでに、モーツァルトはその土地の好みを調べ、それに合う作曲をしてしまっていたのだ……という話は、この曲にふれるすべての解説書にものっていることだ。 私も、以上をケッヒェルの膨大な『モーツァルト 全作品の年代順・主題つき目録』第7版を参照して略記したところである。しかし、それは後世の作り話であり、ジュノムという人物は実在しなかった。 第一、レオポルトもモーツァルト自身も「ジュノム嬢」について何も書き残していないし、それほど才能があり有名な女流ピアニストなら、世の中でかなり話題になっていたはずなのに、どこにもそんな記録がなかったのである。 その人物を特定できる資料が分からないまま、いつしか「ジュノム嬢」は定説となっていた。 上記のような伝説的なジュノム嬢を作り上げた最初の文献は、ヴィゼワとサン・フォアによるモーツァルトの伝記(1912年)であるといわれる。 その以後、この曲の成立について繰り返しこの伝説が語られ定説となっていったのであった。[吉田] p.187
ここでこのサイトの編者(森下)の個人的なお話をすることをお許しいただきたい。 森下は音楽についてまったくの素人ながら、この件に疑問を感じていた。 それほどの才能あるピアニストだというのに何も資料がないのは不思議だと思ったのである。 しかも相手は女流ピアニストであるというのに、モーツァルトが黙っていることはあり得ないし、さらに言えば、姓はジュノムだというだけで、下の名前がまったくわからないのも不自然すぎる。 この疑問をモーツァルト研究で著名な野口秀夫氏にお尋ねしたところ、という、まさに「目からウロコ」のような研究発表があることを教えていただき、ジュノム嬢は実在の人物ではなかったことがわかり、曇天が一気に晴れ渡ったような感動を覚えた。 この内容は吉成氏のウェブページ で公表されており、大変ありがたいことである。
- 吉成 順 「ジュノム嬢の伝説」 ユリイカ 1991年8月臨時増刊号(青土社) pp.151-159
その後、蛇足ながら森下は、そもそも Jeunehomme(英語では Young man)なる苗字が実在するのかについても疑問に思い、パリ市内の電話帳を調べてもらったところ、2000年現在、7人の名前が登録されていたので、このような名前はあってもおかしくないことは分かった。
さらに2006年(モーツァルト生誕250年)にローレンツ氏(Michael Lorenz、18世紀後半から19世紀前半のウィーン音楽を専門とする音楽研究家)がジュノム嬢の正体はジュナミ夫人であるという内容の論文を発表したことで、今やこの曲が「ジュノム嬢のために書かれた」と信じる人はいないであろう。 ただし、ローレンツの発表にはまだ不完全な部分があり、その問題点について野口氏の「神戸モーツァルト研究会第205回例会(2009/2/1)」における研究報告 が大変参考になった。 ローレンツ氏は吉成氏の研究発表に大いに触発されたのではないかと森下は感じている。 また、福地勝美氏による非常に丁寧な報告「特集:《ジュノーム協奏曲》」も大変ありがたいことである。
さて、伝説的なジュノム嬢については、モーツァルトは手紙の中で「ジュノメ夫人 Madame Jenomè」または「ジュノミ Jenomy」と書き、またレオポルトは「ジュノメ夫人 Madame genomai」と書いていた。
◎1778年4月5日、パリからザルツブルクの父へこのように、モーツァルトがいう「ジュノメ」または「ジュノミ」という姓の女性は未婚ではなく、当時モーツァルト父子は既婚者として認知し合っていたのであったが、後世の我々はあまりにも前述の通説に強く支配的されていたため、ほんとうは「ジュノム嬢 Mademoiselle Jeunehomme」と書くべきところをモーツァルトが間違って「ジュノメ夫人 Madame Jenomè」と書いてしまった(リュッツォウ Lützow を litsau と書くくらいだから)と解釈して、辻褄を合わせてしまったのである。 同様に、「モーツァルトは将来にも決してこの曲を凌駕することはなかった」とまで絶賛したアインシュタインも、「モーツァルトが言うジュノミ」を「ジュノム嬢」に読み替えて次のように述べている。
ジュノム嬢も当地にいます。 [書簡全集 IV] p.24
→Madme jenomè ist auch hier.
◎1778年9月11日、パリからザルツブルクの父へ
ぼくは3つの協奏曲、つまりジュノム嬢のためのと、リュッツォウ伯爵夫人のためのと、変ロ長調のとを、ぼくのソナタ集を版刻してくれたひとに、現金で売り渡すでしょう。 [書簡全集 IV] p.278
→ich werde 3 Concert, das für die jenomy, litsau und das aus dem B, den stecher der mir die Sonaten gestochen hat, um pares geld geben
モーツァルトにこのような作品を作るインスピレーションを与え、彼がおそらくパリで再会したと思われる女性、ジュノミ嬢について、なにかもっと詳しいことを知りたいものである。 しかし、彼女はさしあたり伝説的な姿にとどまっている。[アインシュタイン] p.401
この謎の女性がようやく近年になってローレンツによって、明らかにされたのである。 彼女はフランスの舞踏家ノヴェールの娘(1749年生まれ、没年は不明)であり、ウィーンの商人ヨーゼフ・ジュナミ(Joseph Jenamy)と1768年に結婚したルイーズ・ヴィクトワール・ノヴェール(Louise Victoire Noverre)であるという。 彼女は確かにピアノ演奏に優れていたという。 さらに詳しいことは上記「ミヒャエル・ローレンツのジュナミ論について」(野口)にあるので、そちらを参照のこと。
1778年9月11日の手紙にある3つの協奏曲とは、ジュナミ夫人のための変ホ長調(第9番 K.271)、リュッツォウ伯爵夫人のためのハ長調(第8番 K.246)、そして変ロ長調(第6番 K.238)である。 モーツァルトはこの三部作をパリのシベールから出版しようと考えていた。
さかのぼればヴィゼワとサン・フォア(1912年)に端を発し、アインシュタインのお墨付きをもらって、今まで約100年間「ジュノム嬢」で通ってきたこの曲が、ようやく本来の人物「ジュナミ夫人 Madame Jenomy」のものとなった。 そして、その本来の名前のもとでの最初の演奏会が2004年3月25日木曜日ウィーンで、ロバート・レヴィンのピアノ、サー・ノリントン指揮シュトゥットガルト放送交響管弦楽団によって行われた。 ローレンツ氏の研究成果を伝え、その演奏会の予告を掲載したニューヨークタイムズの記事「MOZART BY ITS RIGHTFUL NAME」の最後で、記者(Lawrence Van Gelder)は 「Adieu Jeunehomme. Enter, for the first time, the "Jenamy" Concerto.」と締めくくっている。
よく知られているように、チェンバロに代わってフォルテピアノという楽器が登場し始める頃の曲であり、「作曲の書法から見てチェンバロのための作品とは考えにくい」(久元)といわれるように、モーツァルトはこの新しい楽器の表現豊かな可能性を念頭に書いたのだろう。 そしてまた、ヴィクトワール・ジュナミはモーツァルトが張り切って作曲したいと思うほど魅力的な女流ピアニストだったに違いない。
ザルツブルク時代につくられたすべての作品の中でも燦然と輝いている名曲である。 それまでのクラヴィーア・コンチェルトから一頭地を抜いており、屹立しているとさえ言える。 この作品は、当時行き渡っていた様式からまったくかけ離れた独創的なものである。 ウィーン時代になってから手が加えられたと考えられている『協奏曲ニ長調第5番 K.175』よりも内容が充実しているとも言える。その上で久元は次のように解説している。[久元] p.70
冒頭では、オーケストラがトゥッティでテーマの動機の前半を奏すると、ソロが後半を弾く。 このときオーケストラは沈黙し、否が応でも、ソロの突然の登場は、聴き手の耳をソロに向けさせる。 その対比は強烈である。 そしてオーケストラが提示部を奏し、ソロが入るときには、ふつうのやり方ではソロは提示部のテーマをなぞることになるのだが、この曲ではオーケストラがまだ提示部を奏している間にソロが意表を突くようにトリルで侵入し、その存在感をアピールする。モーツァルトがピアノ協奏曲の分野で示した最初の型破り作品と言われることが多く、特に第3楽章の大規模で貴族的なロンドは、通説となっていた「ジュノム嬢」と関連して「華やかなパリの象徴」と評されることもある。 また、モーツァルトの曲はどれも「耳に優しいが、演奏は難しい」といわれる。 それはこの協奏曲でも例外ではなく、アインシュタインは「名人芸はどこにも求められていない。 とはいえ、このコンチェルトは技術的な点でも、より高い要求を課しているのである」と言い、久元は実際に演奏する際の難しさを次のように説明している。
(中略)
ハ短調の第2楽章は、より際立った個性を示している。 ヴァイオリンが低音で悲しみを湛えたテーマを奏でるが、ピアノ・ソロはやはりこのテーマをなぞるのではなく、オーケストラが冒頭のテーマを奏でる中を、一見して異なる旋律を歌う。 対立の構図なのだが、このテーマの原型は実はオーケストラのテーマの中にある。 この辺の対立と統一の調和は実に見事だ。
第3楽章は自在な運動性をはらんだロンドだが、かなり大規模につくられており、2つのカデンツァを挟んで、中間部にはメヌエットが挿入されている。
第3楽章は、生き生きとした表情を出すためにかなり速いテンポで弾きたいが、そうするとアンサンブルが乱れたり、ピアノソロ自身が破綻しそうになる。 かといって、無難なテンポで弾くと、つまらなくなり、その辺のかねあいが難しい。
自筆譜はしばらく行方不明だったが、現在はポーランドのクラクフにあるヤギェウォ図書館(Biblioteka Jagiellońska)にあるという。
また、カデンツァが複数残され、その1つはチュービンゲン大学図書館に、ザルツブルクSt.Peter (Stiftsarchiv)には第3楽章のための自筆のアインガング(前置き)が2つ、さらにアンドレ初版には3つのカデンツァがあるという。
以上のカデンツァ類が多く残っている理由は、モーツァルト自身がこの曲をよく演奏していたためであり、1777年10月4日ミュンヘンで、1781年4月3日と1783年の春にウィーンで、それぞれ演奏したことが知られているが、そのほかにも演奏したことがあるに違いない。
次の3つのカデンツァは久元著『モーツァルトのピアノ音楽研究』(音楽之友社)の『「本」を「音」に』のページで聴くことができる。
〔演奏〕
CD [PHILIPS 32CD-3139] t=30'11 ハスキル Clara Haskil (p), ザッヒャー指揮 Paul Sacher (cond), Wiener Symphoniker 1954年10月8〜10日、ウィーン Digitally remastered original mono recording |
CD [DENON COCO-6605] t=30'48 クラウス Lili Klaus (p), デザルツェンス指揮 Victor Desarzens (cond), ウィーン国立歌劇場管弦楽団 Orchestra of the Vienna State Opera 1960年 |
CD [LONDON POCL-9430] t=31'56 アシュケナージ Vladimir Ashkenazy (p), ケルテス指揮 Istvan Kertesz (cond), London Symphony Orchestra 1966年、ロンドン、キングスウェイ・ホール |
CD [ERATO R25E-1009] t=33'32 ピリス Maria Joao Pires (p), グシュルバウアー指揮 Theodor Guschlbauer (cond), リスボン・グルベンキアン Orchestre de chambre de la fondation Gulbenkian de Lisbonne 1972年 |
CD [TELDEC WPCS-10098] t=33'25 エンゲル Karl Engel (p), ハーガー指揮 Leopold Hager (cond), ザルツブルク・モーツァルテウム Mozarteum Orchester Salzburg 1978年頃、ザルツブルク・モーツァルテウム大ホール |
CD [GMS CD 16e] t=31'19 ホカンソン Leonard Hokanson (p), レーデル指揮 Kurt Redel (cond), カメラータ・ラバセンシス Camerata Labacensis 演奏年と場所不明 |
CD [LA FORTE LF-1001] t=33'29 久本祐子 (p), 大澤健一指揮, ハーツ室内合奏団 2002年11月20日, 三鷹市芸術文化センター(ライブ) |
〔動画〕
〔参考文献〕
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