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6つのドイツ舞曲 K.567(1) 変ロ長調 (2) 変ホ長調 (3) ト長調 (4) ニ長調 (5) イ長調 (6) ハ長調〔編成〕 2 ob, 2 fl (2 cl), fg, 2 hr, tr, timp, tamb, 2 vn, vc, bs 〔作曲〕 1788年12月6日 ウィーン |
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同じ月の24日に作られたメヌエット(K.568)とともに、宮廷劇場での舞踏会のために。 6曲ともトリオ(第5番だけがイ短調で、ほかは皆同じ調性)を持つ。 第6番のあとに全体を締めくくるコーダが付いていて、6つのドイツ舞曲(K.536)と組み合わせて演奏するよう想定されている。 その際は、「K.536 第1曲から第5曲まで、K.567 第1曲から第5曲まで、K.536 第6曲、K.567 第6曲」という順番が考えられている。 ヴァイル指揮ターフェルムジーク・バロック [SONY SRCR-8625] はその順で演奏している。
この頃、経済状態が悪く、宮廷作曲家としての年俸800フローリンは家賃と同額で、彼自身が「僕の仕事に比べれば多すぎるけれど、僕の才能に比べれば少なすぎる」と語ったと伝えられる。
ただし「モーツァルトがウィーンで住んだもっとも高価な住居は、1784~87年に住んだシューラー通り8番地のもの(通称「フィガロハウス」)で、家賃は年額450フロリーンだった」(ヴォルフ)ので、この伝承は誇張されたものであって、モーツァルトの晩年が経済的に困窮状態にあったことについてはよくわからない。
この年には、6月26日に「交響曲第39番変ホ長調」(K.543)、7月25日に「交響曲第40番ト短調」(K.550)、8月10日に「交響曲第41番ハ長調」(K.551、通称「ジュピター」)と晩年の三大交響曲を矢継ぎ早に作っているが、しかし作曲の注文は減り、演奏会の機会もなくなり、そしてよく知られているようにプフベルクに借金を乞う手紙が頻発するのはこの頃からである。
妻コンスタンツェが家計のやりくりが下手だったのか、それとも病弱でバーデンでの療養が必要だったのか、あるいはモーツァルト自身が奔放な生活をしていたせいか、あまりよく分からないが、とにかく一家の経済はどん底だったようである。
1788年から91年にかけての生産力の飛躍、高密度の作品生産にもかかわらず、モーツァルトの金銭状況はかなり乱脈であった。 奇妙なことにそれが始まるのは、宮廷からの任命が下りて定収を得るようになった頃である。 額面的に見れば年間800フロリーンは結構な額であり、それを受け取ることで、状況はずっと改善されたはずである。 宮廷オルガニストのヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーがもらっていた額は、たった300フルリーンなのだから。 モーツァルトの新しい給料は、家賃や食料も含め、家族が普通に暮らしてゆくかぎり、充分だったことだろう。モーツァルトは前年の1787年4月に「シューラーシュトラーセの高い家賃の家から郊外のラントシュトラーセの安い家賃の家に引越すことで、年間の家賃を175グルデン軽減していた」が、この曲を作る半年前には、家賃のことでまた引っ越しせざるを得ない状況にあり、プフベルクに借金を申し出ている。[ヴォルフ] p.36
6月17日以前これに対してプフベルクは200グルデン送金した。 それは引越しに必要な最低額と思われ、借金の金利がさらに増えただけで、経済状況は少しも改善しなかったようである。 ひと月もたたないうちに再びモーツァルトはプフベルクに借金を申し出ているからである。
もしあなたが、1年か2年、1000もしくは2000グルデンを然るべき利子で貸して、私を援助してくださろうという愛と友情をお持ちでしたら、どんなにか日々の仕事の助けとなるでしょう!
そのような金額をすぐに手放すことができないようでしたら、どうぞせめて明朝までに2、300グルデンだけでもお貸しくださるようお願いします。 ラントシュトラーセの家主がひどく無遠慮な人なので、(面倒を避けるために)その場ですぐに支払わなくてはなりませんでした。 その結果、すっかり取り乱されてしまいました。[書館全集 VI] pp.461-462
他方、前年12月27日に生まれた長女テレージアが6月29日に死亡し、また、次男カール・トーマスが9月21日に満4歳の誕生日を迎えている。 しかし、いつものように、モーツァルトは実生活の喜怒哀楽をそのまま作品に反映させるような野暮な作家ではなかった。 自作目録を見てもわかるように、この手紙が書かれた6月から年末までの半年間に最後の三大交響曲を含め、大小さまざまな曲を立て続けに作っている。 さらにスヴィーテン男爵の依頼に応じてヘンデルの作品の編曲(K.566)と演奏も行っており、貧困に押しつぶされることなく、音楽活動は旺盛だった。
この作品に密接に関連するK.536が全体に穏やかな雰囲気であるのに対し、それに続いて演奏されることが想定されたこの曲は華やかな調子で、高揚した気分に包まれる。
〔演奏〕
CD [キング KICC 6039-46] t=9'55 ボスコフスキー指揮 Willi Boskovsky (cond), ウィーン・モーツァルト合奏団 Vienna Mozart Ensemble 1966年3・4月 |
CD [SONY SRCR-8625] t=19'14 ヴァイル指揮 Bruno Weil (cond), ターフェルムジーク・バロック管弦楽団 Tafelmusik 1991年2月、カナダ、オンタリオ、Center in the Square, Kitchener ※K.536と合わせて、上記の順で演奏 |
〔動画〕
〔参考文献〕
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