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ピアノ協奏曲 第22番 変ホ長調 K.482
〔作曲〕 1785年12月16日 ウィーン |
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年末の予約演奏会のために。 その演奏会の予約会員は120人で、大急ぎで3回行われたが、日時、場所、演奏された曲についての詳細は不明。 自筆譜はチュービンゲン大学図書館にある。 モーツァルト自身によるカデンツァは残されていない。
モーツァルトがピアノ協奏曲でクラリネットが使用した最初の作品。 オーボエの代わりにクラリネットを使っている点で、第22番 K.482、第23番 K.488、第24番 K.491の3つは彼のピアノ協奏曲の中で例外的な作品といわれる。 特に K.482と K.488は双子の作品とみなされている。 さらに K.482ではトランペットとティンパニも使われている。 第2楽章の主題には透明なかなしさがあり、初演でアンコールされたという。 この曲について、父レオポルトは「びっくりするほど難しい」と言った。
第23番 K.488とともに、『フィガロ』 K.492との共通性(たとえば、オペラ・ブッファ風の快活さを備えていること、形式上の制約が緩やかであることなど)を持っているといわれている。
伝承によれば初演は1785年12月23日ブルク劇場で。 それは音楽芸術家協会が会員未亡人と遺児のために催したもので、ディッタースドルフ(46歳)のオラトリオ『エスター Esther』が上演された。 その第2日目の幕間に、モーツァルトがこのピアノ協奏曲を演奏したといわれ、好評だったことが当時の新聞記事に残っている。
今月22日と23日、当地の音楽芸術家協会はその未亡人、遺児達のための例年の大演奏会を催し、有名なディッタース・フォン・ディッタースドルフによるオラトリオ『エスター』を上演し大喝采を博した。 (中略) 第1部と第2部の間で初日にはヨーゼフ・オッター氏がヴァイオリン協奏曲を演奏し、2日目には代ってヴォルフガング・アマデー・モーツァルト氏が自身の作曲によるフォルテ・ピアノの協奏曲を演奏した。 それがどんなに賞賛を博したかはここには書くまい。ただし記事によれば演奏された協奏曲について特定されていない。 また一方では、珍しく第2楽章がアンコールされたという事実が伝わっている。[ドイッチュ&アイブル] p.185
1786年1月13日、父レオポルトからザンクト・ギルゲンの娘ナンネルへ新聞記事の「賞賛を博した」とレオポルトの報告の「珍しいことにアンダンテがアンコールされた」とが共鳴し合流して、一つの伝承が生まれたのではないだろうか。 レオポルトの手紙によれば、モーツァルトは自分の予約演奏会のためにこの協奏曲(変ホ長調 K.482)を作り、そして演奏したのであって、12月22日と23日に行われた音楽芸術家協会による『エスター』上演の際の幕間に演奏したものは別の曲だったと考えられないだろうか。 幕間用の音楽には、すでに作曲された別の曲で間に合わせたと考えても不自然ではない。 モーツァルトにとって、120人もの予約会員が集まる自分の演奏会こそ張りきって取り組むべきものであり、そのためにこの協奏曲の作曲に全力を注いだと考える方が自然である。 その3回の予約演奏会のうち少なくとも1回は12月16日から28日の間に行なわれ、そこでこの作品が演奏されたと思われる。 よく知られているように、この頃のモーツァルトは自分の予約演奏会のために新作のピアノ協奏曲を次々に発表していたのである。 しかし、レオポルトの手紙に書かれた3回の予約演奏会というのがいつ催されたのか、また(K.482以外に)何が演奏されたのかを伝える資料がないのが残念である。 想像をたくましくすれば、12月16日から22日の間(21日水曜日?)に行なわれた予約演奏会で初演され、好評のうちに、23日の『エスター』の幕間に再演されたと考えることもできよう。 この協奏曲が新聞記事にある『エスター』の幕間に演奏(初演?)されたと断定できるかどうかは謎と言ってよいだろう。
おまえの弟から12月28日付でやっと返事を一つもらいました。 彼は120人の予約会員からなる3回の予約演奏会を大急ぎでやったとのことです。 また、彼はそのために変ホ長調のクラヴィーア協奏曲を作ったが、そのとき彼は(ちょっと珍しいことだが)アンダンテをアンコールしなければならなかったとのこと。[書簡全集 VI] p.225
1786年1月14日、父レオポルトからザンクト・ギルゲンの娘ナンネルへモーツァルトのオペラは時代を越えて愛されているが、同時にピアノ作品にも特筆すべきものがあることはよく知られている。
新しい協奏曲は、実際のところ、びっくりするくらいむずかしいものです。 でも、なにか間違っているのではないかと疑っています。 というのは、写譜師がこれを校正したからです。 いろいろな楽器の音の調和を聴かないと、たくさんのパッセージはきちんと音が合わないものです。 それでも、写譜師が総譜で本位記号をフラットと見誤ることがあったり、あるいはそんなことがあったというのはありえないことではありません。 そうしたら、実際うまくいきません。 私が見ればすぐにも分かることでしょう。[書簡全集 VI] p.228
もう一つモーツァルトが行なった改革は、ピアノ演奏の技術と可能性の拡大である。 彼が生まれた頃、すでにピアノは存在していたが、楽器としてはまだひ弱で、鳴り方も小さければ音の持続力も乏しく、音は、ベートーヴェンに言わせると、ハープのようだった。 だがモーツァルトはこのピアノなる楽器の持っている潜在能力を認め、そこから極端に(当時の水準で)演奏技術の難しい代りに、華麗な演奏効果を持つピアノ協奏曲を書くことを思い立ち、実行に移すようになる。 また管楽器を、ピアノと結びつける可能性を発見したのもモーツァルトであった。 また彼はある意味で預言者的な要素を持っており、ピアノ協奏曲変ホ長調K482の緩徐楽章の管楽器だけによるソロのパッセージなどは時代を先取りしたものである(65-92小節)。このピアノ協奏曲変ホ長調ではオーボエの代わりにクラリネットを初めて使用し、管楽器に豊かで多彩な表現の可能性を見出した。 また、アンコールを求められた第2楽章は「メランコリックなテーマで始まる変奏曲」であるが、ここでも作曲者は飽くなき探求の跡を見せている。[ランドン] p.11
このテーマは弦によって提示され、ピアノ・ソロによってかなり変形されて受け継がれるが、やがて弦は沈黙し、管楽器が新しい旋律を歌い始める。 ピアノ・ソロが激しく動いた後、ふたたびフルートが新しい歌を歌い始め、管楽器同士でしみじみとした応答を交わす。アインシュタインは、12月23日の『エスター』の幕間演奏とモーツァルトの予約演奏会(アカデミー)とを同一視しているが、当時のウィーンの聴衆が緩徐楽章のアンコールを求めたことに感嘆している。[久元] p.123
ハ短調のアンダンテは、或る強引なものを持ち出してくる。それはあからさまな表現であり、ほとんど嘆きと、いつわりの慰めと、絶望と、あきらめの展示である。 モーツァルトは全く新しい意味で(つまり19世紀の意味で)短調と長調のコントラストを利用しつくしている。ヴィーン人が12月23日のモーツァルトのアカデミーの際、この楽章の直接的な訴えかけを理解し、それを繰り返し演奏するように求めたということは、文化的に重要な事実である。 モーツァルト自身もこのことに驚いている。モーツァルトが、休む暇なく自分の演奏会を精力的に開催し、また予約会員の数が174人にも達したことを父に誇らしげに伝えた(1784年3月20日の手紙)のも束の間、この協奏曲を書いた頃あたりから演奏会の数は減ってきていた。 それでも120人もの予約会員が集まる自分の演奏会を開催することができ、しかも耳の肥えた聴衆から第2楽章のアンコールを求められたことに、モーツァルトは涙が出るほど嬉しかったに違いない。[アインシュタイン] p.420
オペラ・ブッファ風の快活さを顕著に表している第3楽章の軽快なロンドの途中に優雅なメヌエットが突如現れるが、この型破りな工夫は1777年の変ホ長調のピアノ協奏曲 K.271(通称「ジュノム」)で既に行っている。
余談であるが、姉ナンネルは弟の作品の扱いに少々無頓着だったのではないかと感じられる。 上記1786年1月14日で父は「新曲のハ長調協奏曲K.467を、パート譜と一緒に全部こちらに送ってください。 カデンツァも付けてです。 それがどうしても必要なのです。 またすぐに送り返しましょう」と書いている。 このときナンネルはその求めに応じることができたのだろうか。 山のようにたまった楽譜の中からそれを探し出すことができなかったと思われる。 さらにその後レオポルトは
1786年5月5日、父レオポルトからザンクト・ギルゲンの娘ナンネルへと書いて、ニ短調K.466、ハ長調K.467、そしてこの変ホ長調K.482の楽譜を求めている。 ところがナンネルはなぜかすぐには応じていない。 そのためレオポルトは9月15日にさらに催促しているのである。 結局のところ、ハ長調K.467のカデンツァは現在残されていないが、もしかしたらこのやりとりの中で失われてしまったのだろうか。 それとも長い年月の途中どこかで行方不明になったのか。 この変ホ長調K.482のカデンツァも残念ながら残されていない。
おまえたちが私が望んでいるようにすぐにでもやって来ないのなら、ヴォルフガングの『幻想曲ソナタ』を私のところに送り返してください。 この曲をハインリヒのために写譜させないといけないのです。 おまえたちがこちらにやって来るのなら、私がこちらに他のパート譜を持っている協奏曲のクラヴィーアのパートをすべて持ってこなければなりません。[書簡全集 VI] p.287
〔演奏〕
CD [TOCE-9188] t=35'21 フィッシャー (p) 指揮ウィーン・フィル 1946年8月、ザルツブルク、Mozarteum |
CD [COCQ-84576] t=32'52 クラウス (p), モラルト指揮ウィーン交響楽団 1950~51年 |
CD [Music & Arts CD-895] t=36'12 バドゥラ=スコダ (p), フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル 1952年1月、ウィーン、the Schönbrunner Schlosstheater |
CD [POCG-7127] t=39'03 ルドルフ・ゼルキン (p), アバド指揮ロンドンSO 1984年10月、ロンドン、セント・ジョンズ・スミス・スクェア カデンツァはゼルキン |
CD [PHILIPS 28CD-3001] t=34'56 内田光子 (p), テイト指揮イギリスCO 1986年7月、ロンドン、セント・ジョンズ・チャーチ カデンツァは内田光子 |
〔動画〕
〔参考文献〕
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