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弦楽五重奏曲 第4番 ハ短調 K.406 (516b)

  1. Allegro ハ短調 2/2 ソナタ形式
  2. Andante 変ホ長調 3/8 ソナタ形式
  3. Menuetto in Canone 3/4 ハ短調
  4. Allegro ハ短調 2/4 変奏曲形式
〔編成〕 2 vn, 2 va, vc
〔作曲〕 1787年春 ウィーン

1787年はモーツァルトにとって「危機の年」だとオカールは言っている。 父レオポルトの死(5月28日)があるからである。 ただし

この年は幸先よくはじまる。 モーツァルトは(1月から2月にかけての)3週間をプラーハで過ごし、熱狂的な歓迎を受ける。 秋のシーズンのためのオペラの注文を正式に受け、やがて3ヶ月間(9月から11月まで)再び滞在して、『ドン・ジョヴァンニ』を上演する。 しかし彼は、ヴィーンで拒否されたもすべてのもの、すなわち成功、公的な支持、舞台、劇団などを向こうから与えてくれるというのに、プラーハに落ち着くことは受け容れなかった。
[オカール] p.126
このプラハの歓迎ぶりは唯一の例外であり、ウィーンも含め他の都市ではモーツァルトの音楽は難しいと思われ敬遠されはじめていた。 彼自身もそれは知っていたが、なぜかプラハに移住しようとしなかった。 1785年の父レオポルトのウィーン訪問のあとから父子の往復書簡がほとんどなくなり、残念ながらモーツァルトにどのような考えがあったのか知る手がかりがないが、おそらく以下のような事情だったのだろう。 すなわち、プラハでたとえオペラを作って高収入を得ることができたとしても、それはモーツァルトにとって満足できる境遇でなかったということ。
プラハが彼の将来設計の上で重要な位置を占めなかったこともよくわかる。 つまり、プラハは結局のところは音楽的には田舎のセンターなのであり、大作曲家を食べさせていく場所ではなかったのである。 また実際にプラハでは以前から多くの音楽家を輩出したが、彼らは食えなかったのでみなプラハから流出してしまっている。 プラハの有力貴族たちはこの地に城館を維持してはいたが、ほとんど住みついてはいなかった。 またプラハのオーケストラは熱心で、評判どおり管楽器のセクションがすぐれていた。 しかし、人員が十分揃っていなかった。 新しいオペラ・ハウスは4年前の1783年にできたばかりで、ボンディーニ一座も完全に定着しているわけではなく、ライプツィヒと掛け持ちであったし、歌手も決して一流とはいえなかった。
[ソロモン] pp.645-646
この頃、彼は英語を学んでいて、イギリス行きを計画していた。 ウィーンにはパイプ役となりそうな人たちがいたからである。 弟子のアトウッド(Thomas Attwood, 1765-1838)であり、歌手のケリー(Michael Kelly)であり、ナンシー・ストレースの家族である。 彼らの勧め(レオポルトから見ると「そそのかし」)により、モーツァルトはロンドンで大成功が見込まれると考えていたようである。 英語教師はスイスのヴィンタートゥーア出身のクローナウアー(Johann Georg Kronauer)という人物だった。 その計画あるいは目論見の最初の動きが1786年11月頃にモーツァルトからザルツブルクの父への虫がいい提案という形で知られている。 すなわち二人の子供、カール・トーマス(2才)と生まれたばかりのヨハン・トーマスを父に預けて、妻コンスタンツェと共にイギリス旅行に出かけたいというものである。 その頃、ザルツブルクではレオポルトが可愛い孫(娘ナンネルの子供レオポルト)の面倒をみていたが、そのことは父娘の間だけの内緒事だった。 それをモーツァルトは耳にして、自分たちの幼児も預けて、世話してもらおうと考えてのだった。 しかしレオポルトの気持ちを察すれば、それは無理な相談であることは想像に難くない。 案の定、レオポルトはきっぱりと断り、娘に次のように知らせている。
1786年11月17日
私がとても手厳しい手紙を書かなければならなかったことは、おまえにもたやすく想像できるだろう。 というのは、彼は謝肉祭なかばにドイツを通って英国に旅行したいので、二人の子供の面倒を私に見てくれないかと大変な申し入れをしてきたからです。 でも私はしたたかな手紙を書いて、手紙の続きは次の便で送ると約束しました。 お人好しで正直者の影絵作家のミュラーさんがおまえの弟にレーオポルドゥルのことを褒めたので、あれは子供が私のところにいるのを聞き知ったのです。 このことはあれには一度も書いたことはありませんでした。 そこであれが、それともたぶん細君のほうがうまいことを思いついたのです。
これは確かに悪いことではありません。 彼らは安心して旅行ができるでしょうし、死ぬこともできます。 英国に留まれるかも知れません. そうしたら私が子供たちを連れて彼らのあとを追って行けるとでも。 それとも女中や子供たちのためにあれが私に申し出ている養育費の支払いのあとを追って行くとでも。 もうたくさんです!
[書簡全集 VI] p.317
モーツァルトが父に提案した手紙、それに対するレオポルトの手厳しい返事は残っていない。 このときはモーツァルトはイギリス行きを断念したが、計画を破棄したわけではなかった。 1788年にはそれが実現できることを夢見て、もうしばらくウィーンで活動しようと考えていたものと思われ、したがってプラハに活動の場を移すことはあり得なかったのである。
1787年2月



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話が戻って、1787年2月、プラハでモーツァルトは興業師ボンディーニからオペラ『ドン・ジョヴァンニ』(K.527)の作曲依頼を受けて、12日にウィーンへ帰った。 そしてすぐ、23日にはナンシー嬢の告別演奏会が催されている。 彼女は家族とともに、ケリーとアトウッドを伴ってウィーンを去り、イギリスに帰国したのだった。 その道中、一行は2月26日にザルツブルクに立ち寄った。 翌27日にはレオポルトの案内で市内見物し、晩に大司教の前でナンシーは得意の喉を披露したあと、その夜、慌しくミュンヘンに向かったという。
このときレオポルトは息子がイギリス旅行を企てていて、ロンドンでのオペラ上演の実現を弟子のアトウッドに託していることを耳にしたのかもしれない。 しかしレオポルトはモーツァルトのイギリス行きには否定的だった。 またもやナンシーと彼女の仲間たちが甘いことを言って、モーツァルトをその気にさせたに違いないと考え、今度は息子を思いやる父親としての立場から

夏の旅行ではなにも得るところがないこと、また英国に着くには時機を得ていないこと、この旅行を企てるには少なくとも2000フローリンはポケットに持っていなければならないこと、それにとどのつまり、ロンドンで契約といった何か確実なものをすでに持っていないままでそれをあえて試みるとなると、どんなにうまくやったところで、少なくとも初めは確実に苦境に陥ることになるだろうことを
[書簡全集 VI] p.368
心配して書き送ったが、それに対してモーツァルトの返事はなかった。 モーツァルトがプラハで得た収入はせいぜい1000フローリンでしかなかった。 彼はイギリスで成功を収めるための十分な準備が必要だとわかっていたであろう。 そんな時期、4月から5月にかけてモーツァルトは弦楽五重奏曲をまとめて書いている。 すなわち「ハ長調 K.515」と「ト短調 K.516」である。 作曲の動機はわかっていない。 アインシュタインは
なにが彼を五重奏曲へ誘ったかを言うのは困難である。 外的な誘因を探せば、おそらくフリードリヒ大王の死と、ベルリーンのチェロを弾く音楽愛好家フリードリヒ・ヴィルヘルムの即位であろう。 1786年1月21日に、ボッケリーニはプロイセンの宮廷作曲家となったが、モーツァルトはこのような有利な任命をいつも注意深く求めていたのである。 ボッケリーニがその翌年に、ベルリーンとブレスラウを訪問したことは立証されている。 彼はまたおそらく、彼の兄弟、ジョヴァンニ・アントーニオ・ガストーネがリブレット作者として住んでいたヴィーンをも訪問したであろう。 そしてこの動機がおそらく最も納得のゆく説明であろう。
[アインシュタイン] pp.265-6
と述べ、就職活動のためと考えられる可能性を示している。 しかし実際のところは不明である。
モーツァルトがボッケリーニの有名な一連の五重奏曲を知っていたかどうかは判らないが、仮にオーストリア人たちがイタリア人の書いたこの種の曲を学んでいた、と仮定してみても、モーツァルトが求めていたのは、そうしたものとは異なったメッセージであり、使ったのは別の語法であった。 ボッケリーニが2本のチェロを使ったのに対して、モーツァルトは2本のヴィオラを使ったので、そのことだけでも音楽の織地は全く別のものになる。 なぜそんなことを考えたのかは不明であるが、同様に、彼が弦楽五重奏曲という形を、なぜ特別に取り上げたかもよく判っていない。
[ランドン] pp.120-121
2本のチェロを使わなかったことについては、チェロの名手といわれるプロイセン王が同じパートのライバルを絶対に許さなかったことをモーツァルトが考慮したからであるとアインシュタインは説明しているが。 あるいは予約出版による収入を見込んでというだけのことだったのかもしれない。 どのような事情があったのかわからないが、彼は2曲では足りないと考え、1782年7月末に作曲したたセレナーデ第12番ハ短調、通称『ナハトムジーク』(K.388)を弦楽五重奏に編曲した。 それがこの曲である。 原曲がハ短調というセレナードとしては異例な作品であり、それに弦楽五重奏曲の形でモーツァルトが再び新たな命を与えたものといえる。 しかしオリジナルのハ長調とト短調の五重奏曲に比べて、この曲は(5年前に作曲されたということもあり)室内楽的な密度が足りないといわれたり、原曲セレナードの力と美が大きくそがれてしまっているといわれたり、評価はそれほど高くない。 なお、これら3曲の予約出版広告が翌1788年4月2日に「ウィーン新聞」にモーツァルト自身による名前で掲載された。
新しい五重奏3曲、ヴァイオリン2、ヴィオラ2、チェロのためのもので私が浄書校正しました。 予約注文を受け付けます。 予約価は4ドゥカーテン、ヴィーンの現価18フローリン。 予約券はホーエン・マルクトのザリンツの店のプフベルク氏の許で毎日入手できます。 作品も同所で7月1日から入手できます。 外国の愛好家は郵送料前納をお願いします。
[ドイッチュ&アイブル] p.215
ところが実際には
誰もこの桁はずれの作品を予約してくれるものはいなかった。 これらの曲の極端なまでの新しさ、その情緒の激しさ、ト短調 K516 における絶望の深さ、などは、ハイドンに捧げた四重奏曲のどれをも遥かに凌駕しており、さらには短調への非妥協的な執着(3曲のうち2曲が短調)などを見れば、アマチュアたちは当然のことのように敬遠したであろう。
[ランドン] p.122
ランドンは「モーツァルトの音楽言語は、当時のアマチュアの理解の能力を遥かに越えていた」というが、これは現代においても同様であり、たとえアマチュアでなく、プロの演奏家でもほんとうに理解するのは難しいのではないだろうか。

余談であるが、よく知られているように、これらの五重奏曲が書かれて間もなく、5月28日に父レオポルトがザルツブルクで他界。 モーツァルトは10月に『ドン・ジョヴァンニ』初演のため再びプラハ訪問。 11月17日にウィーンに戻ったとき、その2日前にグルックが死去。 お陰でモーツァルトは12月7日、宮廷作曲家になる。 グルックの死で空席となった宮廷作曲家のポストが回ってきたからである。 多くの候補者の中から、ヨーゼフ2世一人の推薦を受け、待望の職にありつけたものであったが、その仕事とは毎年冬期間の舞踏会でのダンス音楽を作ることで、前任者の給料2000フロリンに対して、モーツァルトのそれは800フロリンに過ぎなかった。 ヴェンツェルの言葉によると「音楽の分野での稀なる天才が外国で勤め口や給料を求める必要が起らないような」称号に過ぎなかったのである。 ちょうどその頃、プラハからオペラ作曲の依頼を受けたハイドンがその申し出を断り、依頼すべき相手としては『ドン・ジョヴァンニ』を書き上げたモーツァルトこそがふさわしいと推薦しつつ、

プラハはこの貴重な人物をしっかりつかまえておくべきです。 それだけの報酬を払うべきです。 それがないとこの偉大な天才の運命はあわれなものになります。 後世に対しても努力を奨励することになりません。 あのかけがえのないモーツァルトがまだどこの帝室、王室にも雇われずにいるとは私には腹立たしいことです。
[ドイッチュ&アイブル] p.211
と嘆いていたが、モーツァルトが手にいれた定職は上記のようなものであった。 翌1788年からモーツァルトは経済的に苦しい状態に陥り、さかんにプフベルクから借金するようになる。 借金は嵩む一方となり、イギリス行きは見果てぬ夢に終ってしまう。

〔演奏〕
CD [WPCC-4122] t=22'13
ヒューブナー (va), バリリQ
1956
CD [CBS SONY 75DC 953-5] t=22'15
トランプラー (va), ブダペストQ
1965
CD [DENON 33C37-7966] t=24'59
スーク (va), スメタナQ
1981

〔動画〕


 

オーボエ五重奏曲 ハ短調 K.406 (516b)

〔編成〕 ob, vn, 2 va, vc

編曲した弦楽五重奏曲の第1ヴァイオリンをオーボエに置き換えた版。

〔演奏〕
CD [PHCP-9029] t=23'35
ホリガー (ob),
1977
CD [ミュージック東京 NSC167] t=23'19
キャンター (ob), ロンドン・バロック
1987
CD [NAXOS 8.557361] t=22'20
アートヴェズ (ob), ボトネス (vn), ラウトロプ (va), ゴロヴァノフ (va), ヨハンセン (vc)
2002
 


〔参考文献〕

 

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2012/11/25
Mozart con grazia