Mozart con grazia > ピアノ・ソナタ >
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ピアノのためのアレグロ K.400 (372a)

  • Allegro 変ロ長調 4/4 (未完、90小節)
〔作曲〕 1781年? ウィーン

展開部のあと第91小節第3拍目で中断。 その理由は不明。 ピアノ・ソナタ楽章になるものと思われる。 自筆譜には別人の書き込みがあり、それによりケッヘル初版では1782年の作としたが、ヤーンは1781年作と推定。 ケッヘル番号はK6.372aに位置づけられているが不明。 自筆譜の用紙の研究では1782年か、または1783年から84年にかけて用いられたタイプであるという。 この曲は展開部にゾフィーとコンスタンツェの名前が書き込まれていることで有名である。 その意味は不明であるが、アインシュタインは次の面白い説明をしている。

これは、いつも半ばは本気なものと受取るべき、芸術的形式をそなえた、モーツァルトの冗談の一つである。 両手で奏される十六分音符のアルペジオと経過句の熱っぽい嵐のような演奏がはじまり、展開部までつづいてこの激動がやむが、そのあとに《ゾフィー》と《コンスタンツェ》、つまり未来の義妹と妻への、あまりに大げさな、それゆえにまた滑稽な愛の告白が来る。 それは1781年夏のことであって、モーツァルトがまだ二人の少女と《ふざけたり、冗談を言ったりしていた》ときである。 それから事が苦しい本気なものとなったのである。 そうなるとモーツァルトはもはや、この楽章にほかの必要な二楽章を加えようとは考えなかった。
[アインシュタイン] p.339

1781年はモーツァルトにとって重要な年となったことはよく知られている。 前年11月、オペラ『クレタ王イドメネオ』の仕上げのためにモーツァルトは大喜びでザルツブルクを飛び出し、ミュンヘンに旅だったが、そのままザルツブルクに戻ろうとしなかった。 コロレド大司教は11月29日に没した女帝マリア・テレジアの葬儀のためウィーンに滞在していたが、業を煮やしてモーツァルトにすぐウィーンへ来ることを命じた。 理由は、6週間の予定の休暇が大幅に伸びて、モーツァルトがミュンヘンで自由に行動しているのを咎めるためだった。 それに応じてモーツァルトは1781年3月ウィーンに到着し、ドイツ騎士団の宿舎でもあった「ドイチェ・ハウス」に宿泊することになった。 それから5月初めに大司教に追い出されるまで有名な大騒動が続き、とうとう25歳の青年モーツァルトはウィーンで音楽家として独立し、そこで残りわずかな10年間を生きることになった。

1781年5月9日、ウィーンからザルツブルクへの父へ
一週間前に突然使いの者が入って来て、すぐに出て行くようにと言いました。 そこでぼくは大急ぎでいろいろとトランクにまとめました。 そしてヴェーバー老夫人が親切にも自分の家を使わせてくれました。 その家で綺麗な部屋をもらい、時々急に必要になって、一人では手に入らないような物があるとすぐに助けてくれるような世話好きな人々のもとにいるわけです。
(中略)
今後「ドイツ館」宛に、そして小包と一緒には、お手紙を下さらないように。 ザルツブルクのことは、もう聞きたくもありません。 大司教のことは、気が狂いそうなほど憎んでいます。 さようなら・・・
[手紙] pp.251-255
よく知られているように、片思いの相手だったアロイジアは歌手として1779年ウィーンに来ていた。 それに合わせてヴェーバー一家もウィーンに引っ越していたが、その年の10月に一家の主フリードリンが死去。 またアロイジア(当時21歳)は1780年10月にヨーゼフ・ランゲ(当時30歳)と結婚していた。
モーツァルトが大司教と決別したとき、ヴェーバー未亡人は残りの3人の娘ヨゼファ(当時22歳)、コンスタンツェ(当時19歳)、ゾフィー(当時18歳)と共に暮らしていて、彼はよく出入りしていたのであった。 そんなときに、二人の娘コンスタンツェとゾフィーの会話のやりとりをモチーフにこのピアノソナタを作曲しようとしたものの、(たぶん)第一楽章の途中までで中断し、なぜかそのまま放置したのである。 あるいは彼の頭の中では作曲が完成されていたが、それを楽譜に書き下ろすことを途中でやめたのかもしれない。 1780年末、ザルツブルク脱出の機会を狙っていた24歳の青年モーツァルトは選帝侯カール・テオドールの注文を受けて『イドメネオ』(K.366)の作曲と初演を口実にミュンヘンに滞在していた。 この大作の完成に没頭する彼はザルツブルクの父へ新年に向けての挨拶を送っている。
1780年12月30日、ミュンヘンからザルツブルクへの父へ
「新年おめでとう!」 いまはほんとに少ししか書けないのですが、ごめんなさい。 仕事に没頭してるもんですから。 ぼくはまだ第3幕を完全に仕上げていません。
(中略)
さあ、手紙を終えなくては。 作曲に打ち込まなくてはなりません。 作曲はもうすっかり出来ているのですが、まだ書き上げていないのです。
[書簡全集 IV] pp.544-546
ヴォルフはこの「作曲はもうすっかり出来ているのですが、まだ書き上げていないのです。 Alles ist schon componirt, nur noch nicht niedergeschrieben.」という文に注目する。
この言葉は、手を付ける前に考えるという、どこにでもある心的プロセスを指しているのではない。 その意味は、曲を使う基本アイデアはもとより、楽曲ないし楽章の全体が、ペンを走らせる以前に頭の中で程度の差こそあれ準備され、形成されていた、ということである。
[ヴォルフ] p.202
幸い『イドメネオ』の作曲は完成された(頭の中に出来上がったものをすべて楽譜に書き下ろした)が、何らかの理由で完成されず(書き下ろされず)断章のまま残された曲は多い。 このピアノソナタ断章(K.400)はゾフィーとコンスタンツェとの親交から生まれ、その場で演奏して楽しむためのものだったとしたら、完成させなければならない必然性はあまり高くない。 いつか機会があれば(収入源として利用できるときが来るまで)という考えで、断章のまま残しておいたのだろう。 しかしこの書きかけの曲がほかの多くの断章とともに廃棄されなかったところに大きな意味がある。
断章はモーツァルトの死後、シュタードラー師とニッセンの手で管理された。 ジャンルごとに分類されたその並べ方を見ると、モーツァルトがすでに、未完の作品をファイリングする実践的なシステムをもっていたのではないかという印象を受ける。 モーツァルトがそれらを捨てなかったということは、補って完成させる気持ちがあったからである。
[ヴォルフ] p.212

モーツァルトの死後、再現部以下57小節をシュタトラーが補筆した版がある。 オッフェンバッハのアンドレが1826年に出版。

〔演奏〕
CD [EMI TOCE-11558] t=4'49
ギーゼキング Walter Gieseking (p)
1954年3月、ロンドン
CD [KING K32Y 297] t=5'01
クロムランク Duo Crommelynck (p)
1988年7月、ベルギー、ゲント
CD [WPCC-4272] t=9'10
リュビモフ Alexeï Lubimov (fp)
1990年1月、フランス、スミュール・アン・オスワ
シュタトラー補筆。 ヨハン・アンドレアス・シュタインが1788年に製作したフォルテピアノのレプリカ(クロード・ケルコム1978年製作)で演奏

〔動画〕

〔参考文献〕


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2016/07/03
Mozart con grazia