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レチタティーヴォ「ああ、私はそれを知っていた」

アリア「ああ、私の眼の前から去って」 K.272

〔編成〕 S, 2 ob, 2 hr, 2 vn, 2 va, vc ,bs
〔作曲〕 1777年8月 ザルツブルク
1777年8月




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プラハからザルツブルクに帰省していたドゥシェク夫人(旧姓ハムバッハー、24才)に。 彼女はザルツブルクに生まれ、前年10月にプラハで結婚し、この年の8月に母方のヴァイザー家を訪れたところであった。 15日にモーツァルト家の「タンツマイスター広間」で音楽会があり、彼女が何かの曲を歌ったことがシーデンホーフェンの日記に書き残されている。

その声は比類なく明るく優雅であった。 趣味も感じの良い歌いっぷりであった。
[ドイッチュ&アイブル] p.128
才能豊かな若い女性を目の前にしてモーツァルトが刺激されないわけがない。 こうして、アインシュタインが「モーツァルトは、このアリア以上に大きな野心がこもり、強烈な劇的表現をそなえているものは、ほとんど書かなかった」と絶賛するアリアが彼女のために書き上げられ、8月15日に歌われたと思われる。 そのような作品を短期間の練習で自分のものとし、聴衆に感動を与えうる技量を持つ若いヨゼファに出会ったモーツァルトにただならぬ感情が生まれたとしても不思議ではない。 ちなみに、このとき彼女の夫ドゥシェク氏は46歳。 アインシュタインは控えめに「最初の出会いのとき、モーツァルトの方にはおそらく親交以上のもの、つまり、ちょっとした恋心さえ生まれたであろう」と言っているが、この力のこもった作品を聴くと、「ちょっとした」どころの騒ぎではない。

歌詞はパイジェルロ(1740-1816)のオペラ『アンドロメダ』のためのチーニャ・サンティ(Vittorio Amedeo Cigna-Santi)による詞で、第3幕第10場で歌われるものである。

アルゴス王エリステーオの娘アンドローメダは自分を救ってくれたペルセウスとの結婚を父親によって反故にされた上に、もうペルセウスが死んだと思い込んで激しい怒りを爆発させ、ついには諦めのうちに自分も冥府に彼を追いかけて行き、そこで結ばれようと歌う複合のアリアである。 いずれも伴奏つきレチタティーヴォが状況を的確に表現し、ハ短調の最初のアリアが激しい怒りと絶望を表わし、変ロ長調のカヴァティーナはあの世へ愛する人と共に逝く憧れを冥府の河の川波を伴奏にたくみに描いている。
[海老沢] p.216
パイジェルロの『アンドロメダ』は1774年にミラノのロンバルディア大公宮廷劇場で初演されたといわれ、モーツァルトはその歌詞をどうやって入手していたのであろうか。 1770年のオペラ『ポントの王ミトリダーテ』(K.87)の作曲以来イタリア・オペラの動向に通じ、機会があればいつでも応じようと研究していたのだろう。 そこに現れたのがヨゼファ・ドゥシェクという「ことによると史上初の演奏会の舞台を専門とする声楽家」(レイバーン評)だった。 待ってましたとばかりにモーツァルトは傑作を書き上げた。
これはもはや、表現の点で対立的な二つのアリアがレチタティーヴォによって導入され、また結合されるような、伝統的な意味での小カンタータではない。 音楽的案出の活力と微妙さ、きわめてつつましい手段(弦楽合奏にオーボエとホルンが加わるだけの小オーケストラ)にもかかわらぬ表現の美と力は、モーツァルト自身によってもついに凌駕されることはなかったのである。
[アインシュタイン] pp.491-492
微妙な心理描写について音楽家ではモーツァルトの右に出る者はいない。 オカールはつぎのようにアーベルトの言葉を引用している。
ソプラノとオーケストラのためにモーツァルトが書いた最も美しいアリアの一つ。 これは、進むにつれ情感が目立って高まってゆくこの分野の大部分の作品とは反対にゆっくりと流れるように緊張が緩み、 夢想に移行し、最後にはきわめて精緻な心理観察によって、諦めきって絶望的な夢の外での目覚めがもたらされる。
[オカール] p.53
そしてヨゼファはエチオピアの王女アンドロメダになりきってその複雑な心境を見事に歌いあげたのだろう。 以後もモーツァルトとの親密な関係は続き、「1789年の春のモーツァルトとドゥシェク夫人の旅の行程は奇遇ともいえるほどにある一点に収斂する」というソロモンの大胆な推理にまで発展するのである。

余談であるが、よく知られているように、モーツァルトは9月23日に母と二人でパリを目指してザルツブルクを旅立ち、途中マンハイムでアロイジア・ウェーバー(17~18才)と出会い、すっかり惚れ込んでしまう。 そして翌年(1778年)2月7日の父への手紙で(ヨゼファ・ドゥシェクのために書いたはずの)このアリアをプレゼントしたと伝えている。 父レオポルトの驚きと叱責を予想して「ドゥシェク夫人にはあとで手紙で説明する」と言い訳しているが。 しかしアロイジアに寄せる恋心には並々ならぬものがあり、7月30日にはモーツァルトはパリから次のように書き送っているほどである。

あなたが今ぼくの「アンドローメダ」の一幕(Ah, lo previdi!)に一所懸命取りかかってくれたら、ぼくはとても嬉しいと思います。 請け合って言いますが、その幕はあなたにぴったりだし、あなたの名を大いに高めるものだからです。 何よりも感情を現すことをおすすめします。 詞(ことば)の意味と強さをよく考え、本気でアンドローメダの立場に身を置き、その人自身になった気持ちになることです。 そんな風にしてやって行ったら、あなたのそのとても美しい声と、あなたのすぐれた歌い方をもってすれば、短時間でまちがいなしに素晴らしくなるでしょう。
[手紙(上)] p.170
未熟な歌手に心のこもった歌い方を助言する内容のこの文面から見ると、歌手としての技量はアロイジアよりヨゼファ・ドゥシェクの方が数段上だったことがわかる。 ただし、この曲の楽譜がアロイジアのものになったわけではなく、モーツァルトはザルツブルクに持って帰った。 のちにウィーンで活動しはじめたモーツァルトはこの曲を演奏会で使うことを考えたと思われ、ザルツブルクの父に送ってくれるよう求めている。

〔歌詞〕
Ah, lo previdi!
Povero Prence, con quel ferro istesso,
che me salvo, ti lacerasti il petto.
Ma tu si fiero scempio,
perche non impedir?
ああ、私にはわかっていたわ!
いたましい王子様、私をお救い下さったその剣で
今度はご自分の胸を傷つけてしまわれて。
それにしても、こんな惨い闘いを
あなたはなぜ止めなかったのです?
石井宏訳 CD[EMI TOCE-6598]

〔演奏〕
CD [EMI TOCE-6598] t=13'16
エッダ・モーザー Edda Moser (S), ブロムシュテット指揮 Herbert Blomstedt (cond), ドレスデン国立歌劇場管弦楽団 Staatskapelle Dresden
1978年11月、ドレスデン
CD [DECCA LONDON 417-756-2] t=12'11
キリ・テ・カナワ Kiri Te Kanawa (S), フィッシャー指揮 Gyorgy Fischer (cond), ウィーン室内管弦楽団 Wiener Kammerorchester
1980年12月、ウィーン
CD [COCO-78064] t=13'14
シャーシュ (S), ルカーチ指揮ハンガリー国立歌劇場管弦楽団
1985年
CD [VJCC-2309] t=12'10
ルーテンス Lena Lootens (S), クイケン指揮 Sigiswald Kuijken (cond), ラ・プティット・バンド La Petite Bande
1988年3月、オランダ
CD [Brilliant Classics 93408/5] t=14'10
? (S), European Chamber Soloists, Nicol Matt
2006年

〔動画〕

〔参考文献〕


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2012/07/29
Mozart con grazia