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ディヴェルティメント 変ロ長調 K.254

  1. Allegro assai 変ロ長調 3/4 ソナタ形式
  2. Adagio 変ホ長調 4/4 二部形式
  3. Tempo di menuetto 変ロ長調 3/4 ロンド形式
〔編成〕 p, vn, vc
〔作曲〕 1776年8月 ザルツブルク
1776年8月



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楽器編成からピアノ三重奏曲に分類され、その第1番に置かれているが、自筆譜には「ディヴェルティメント」と書かれている。 作曲の動機はわからないが、仲間うちの演奏のために書かれたものと思われる。 ピアノに弦楽器の伴奏がつけられた三重奏曲であるが、ヴァイオリンはピアノと対等に扱われる部分が多く、ヴァイオリン奏者にはそれなりの腕前が要求されているので、父子が(または姉ナンネルがピアノでモーツァルトがヴァイオリンで)演奏するものとして作曲したのかもしれない。 チェロは低音の補強に終始しているので、その奏者は気の合う者であれば誰でも良かったのか、場合によってはチェロ奏者なしでも良いということだったのだろう。

この「変ロ長調」が作られた1776年は彼の社交音楽の最も実り豊かな年であり、オカールによれば「モーツァルトが二十歳を迎える素晴しい年」であった。 この年、10曲近いセレナードやディヴェルティメントが一挙に生み出されている。

一見無頓着そうにみえたそれまでの2年来準備されていたことが、今や素晴しく開花し、そこでは繊細さが輝きに、若々しさが明るさに結びつく。
作品の数はさほど多くはないけれど、このうっとりするような庭園の中央でひときわ芳香を放っている花壇にはセレナードという花が植わっている。
[オカール] pp.49-50
そして、このような時期に書かれたこの室内楽について、オカールは「堂々たる記念碑的な音楽を狙ったものではなく、セレナードと同じように軽やかな明るさを帯びている」と評している。 ただし、モーツァルトが言うディヴェルティメントにはこのようなピアノ三重奏も含まれる。 アインシュタインは「正確にはピアノのためのソナタで、オブリガート・ヴァイオリンを持ち、低音部を強化するチェロが一つ備わったもの」と評している。
チェロには、この作品のロンドで一度だけ、独立して低音部を4小節演奏することが許されているにすぎない。 モーツァルトのピアノ三重奏曲の総譜の書き方は、近代のものとはいちじるしくちがっている。 ヴァイオリンとチェロがともにピアノ・パートの上にあるのではなく、ピアノ・パートは両弦楽器の中間に書かれている。 チェロはピアノの左手の低音部を強めるだけのように見える。 それは、ヴァイオリンと協同してピアノに対立しているのではない。
[アインシュタイン] p.355
近代のピアノ三重奏曲という枠に当てはめてこの作品を評価することはできないのである。 したがって、モーツァルトのピアノ三重奏曲としては最初の作品ではあるが、まだ弦楽器の扱いが不十分であることを作曲者自身が自覚して「ひかえめに」ディヴェルティメントと題したのだ、というものではない。 最高傑作の一つ「弦楽三重奏のためのディヴェルティメント 変ホ長調」(K.563)のタイトルからも察することができるように、モーツァルトの言うディヴェルティメントやカッサシオンとは単に「室内楽曲」のことであった。 最後のピアノ三重奏曲(第7番 K.564)においてもやはりピアノが主で、弦はまだ従属的であることを考えれば、何ら不思議なことではない。

1777年10月


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余談であるが、翌1777年、モーツァルトは母と二人でパリを目指して就職活動のための旅に出たとき持参した自作品の中にこの曲が含まれていた。 そして、途中ミュンヘンでこの曲を演奏する機会があった。 10月4日に宿泊先で催された音楽会でのことであった。

1777年10月6日、ミュンヘンからザルツブルクの父へ
4日の土曜日に、アルベルト大公殿下の霊名の祝日の盛大なお祝いに、ここで小さな音楽会が開かれ、3時半に始まって8時に終りました。 お父さんもまだ覚えているでしょうが、デュプレーユ氏も出席しました。 彼はタルティーニの弟子です。
<中略>
ぼくらはまずハイドンの五重奏曲を2曲演奏しました。 ところが、ひどくがっかりしました。 彼の演奏は聴くに堪えないのです。 彼は4小節と間違えずに弾き続けることはできません。 彼はずっとひとりごとを言ってました。 「ごめんなさい。 また間違えた! これはむつかしいけど、美しい曲ですね。」 ぼくはいつも答えてやりました。 「かまいませんよ。 ぼくら仲間うちの演奏ですから。」 それからぼくは自作の協奏曲『ハ長調』『変ロ長調』『変ホ長調』と『ピアノ三重奏曲』を演奏しました。 これはじつにうまい伴奏でした。 アダージョで、彼のパートの6小節をぼくが弾かなくてはなりませんでした。 終わりに、ぼくは最近作の『変ロ長調』のカッサシオーンを弾きました。 みんな目をみはって驚嘆していました。 ぼくはヨーロッパ最高のヴァイオリン奏者のように弾きましたよ。
[書簡全集 III] pp.100-101
ここで『ピアノ三重奏曲』と書いているのがこの曲である。 そしてまた、ザルツブルクのロドロン伯爵夫人のための「ディヴェルティメント変ロ長調」(K.287)をここでモーツァルトは「カッサシオーン」と言っている。
この三重奏曲(K.254)では第2楽章にヴァイオリンの活躍の場が与えられているが、上の手紙で、当地のミュンヘン宮廷楽団ヴァイオリン奏者デュプレイユ(Charles Albert Dupreille, 1728-96)がまともに弾けなかったと父に伝えている。 レオポルトは「あれほど拍子の取り方が正しいヴァイオリン奏者のデュプレーユのことだから、すばらしい出来になるだろう」と言っているが、モーツァルトにかかっては、その優れたヴァイオリン奏者も不名誉な話を後世に残すことになった。

この曲は「作品3番」として1782年にパリのエーナから「ディヴェルティメント」のタイトルで出版された。 その後、1785年のウィーンのトレークから出版されたときの新聞広告には「クラヴィチェンバロ、ヴァイオリン、チェロのための三重奏曲」となっていた。

〔演奏〕
CD [EMI CHS 7697962] t=20'49
クラウス Lili Kraus (p), ボスコフスキ Willi Boskovsky (vn), ヒューブナー Nikolaus Hübner (vc)
1954年、Wien, Musikvereinssaal
monaural, digitally remastered.
CD [EMI VD 77600] t=16'33
モーツァルト・トリオ / Zehr (fp), Diedrichsen (vn), Engel (vc)
1979年
CD [ミュージック東京 NSC173] t=26'10 ; 楽譜に示された通りに反復
ロンドン・フォルテピアノ・トリオ The London Fortepiano Trio / ニコルソン Linda Nicholson (fp), ハジェット Monica Huggett (vn), メイソン Timothy Mason (vc)
1983年9月, フォルテピアノは1797年頃ウィーンのシャンツ製、ヴァイオリンはストラディヴァリウスのレプリカ(ロス製1977)、チェロ同(1979)
CD [TKCC-15110] t=18'52
ズスケ (vn), オルベルツ (p), プフェンダー (vc)
1988年

〔動画〕



 
Tartini
 

Giuseppe Tartini

1692 - 1770

18世紀前半イタリアで名人といわれたヴァイオリン奏者。 出生から成長までの詳しいことはわからない。

ある日22歳の彼はアンコーナのオペラ・オーケストラのヴァイオリン弾きとして就職している。 さらには、1721年4月16日、29歳の彼は押しも押されぬ大ヴァイオリニストとしてパドヴァの聖アントーニオ大聖堂の「第一ヴァイオリン奏者兼コンサート指揮者」 primo violino e capo di concerto に就任いている。
<中略>
この就任から20年ほどの期間が彼の全盛時代であり、この間に無数のヴァイオリン協奏曲やソナタが作られた。
<中略>
彼は理論家として多くの著作を残し、教育家としてナルディーニをはじめとする18世紀のすぐれたヴァイオリニストを輩出させた。 理論家としての彼の開発した音楽理論やハーモニーの構造は、当時の、たとえばモーツァルトの対位法の師でもあるボローニャのマルティーニ神父などをはじめとする理論家たちから袋叩きにあっており、これに対してタルティーニもしぶとく応戦したりしているが、彼のヴァイオリン教本の一部は、ザルツブルクの神童の父レオポルト・モーツァルトの書いた有名なヴァイオリン教本 Versuch einer Gründlichen Violinschule の中にそっくり盗用されている。 ということは、タルティーニの本には盗まれるだけの価値があったということになる。
[石井] p.78
タルティーニといえば『悪魔のトリル』と呼ばれるソナタが有名であるが、その曲がいつ書かれたのかは不明であり、さらに出版されたのは彼の死の30年後であり、生前にどの程度まで人々に知られていたかはわからないという。

〔動画〕『悪魔のトリル』


〔参考文献〕


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2015/09/06
Mozart con grazia