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弦楽四重奏曲 第1番 ト長調 K.80 (73f)

  1. Adagio ト長調 3/4 二部形式
  2. Allegro ト長調 4/4 ソナタ形式
  3. Menuetto ト長調 3/4
  4. Rondeau ト長調 2/2 allegro
〔編成〕 2 vn, va, vc
〔作曲〕 1770年3月15日 ロディ
1770年3月



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前年1769年12月13日、少年モーツァルトは父に連れられて初めてのイタリアへの旅に出た。 行く先々で神童ぶりを披露し、大歓迎と賞賛を受け、ミラノの総督フィルミアン伯爵からは1770年のクリスマスに上演されるオペラ『ポントの王ミトリダーテ』(K.87)の注文まで賜ることになった。 そしてミラノを3月15日に出発、ボローニャへ向かう途中、その夜泊まったローディ Lodi で最初の弦楽四重奏曲を作った。 自筆譜に「アマデーオ・ヴォルフガンゴ・モーツァルト作の四重奏曲、1770年3月15日夜7時、ローディにて」と書かれてあるという。 そのため、この曲は通称『ローディ』と呼ばれる。 のちに、モーツァルトは「ローディの宿で一晩で書き上げた」(1778年3月24日の手紙)と書いている。
ただし、そのとき書いたのは3楽章までで、ロンド楽章は1773年(ウィーン)か74年初め頃(ザルツブルク)に付け加えられたものと考えられている。 タイソンによる自筆譜紙の分析によると、1773年から75年の間に使われていた紙だという。
第1楽章アダージョ、第2楽章アレグロの表記は父レオポルトの手によるものであり、また、第3楽章トリオ(ハ長調)もやはりレオポルトにより書き直されているという。

アインシュタインは

まだ四重奏曲ではなく、1770年頃の四重奏曲制作の過渡的状況を強く表している。 そこに感じられるのは、ジャンバティスタ・サンマルティーニである。 当時70歳のミラノの老楽匠たる彼は、かつてはグルックの先生というよりむしろ同輩であった。 彼の功績は、イタリア器楽音楽に自由、新鮮味、無頓着、きわめてこまやかな民衆性、きわめて民衆的なこまやかさ、つまりブッフォ風なものと情愛のこもったもの、さらにまたしばしば平板で騒がしいものを与えるのに貢献したという点にあるのである。 モーツァルトはかなり厳密に彼に追随した。 モーツァルトは情愛のこもったアダージョではじめ、騒がしいアレグロをそれにつづけ、完成されたメヌエット、すなわち新しい調性のトリオ1つを持つメヌエットで曲を結んでいる。 これは典型的にミラノ式である。
奇妙なことに、モーツァルトは彼の最初の四重奏曲を後年になっても尊重していた。 彼はそれに1773年末か1774年はじめにロンドをつけ加えた。 これはそれ自体で魅力のある作品で、ガヴォット風のテーマはグルックの『メルランの島』のアリエッタを思わせるものがある。
[アインシュタイン] pp.240-241
と評している。 ただし少年モーツァルトが具体的にどのような形でサンマルティーニから影響を受けたかはわからない。 それは単にレオポルトが自分の息子の類まれな才能を誇示するために、当時の音楽の先進地の一つミラノでもてはやされていた形式「アダージョ~アレグロ~メヌエット」の合奏曲を作るのも朝飯前だと見せつけようとしただけのことであり、その結果、サンマルティーニをはじめとする当地の著名な音楽家から驚嘆と賞賛の言葉が得られればよかったのであろう。

この四重奏曲はまだ「1770年頃の過渡的状況」にとどまっているとはいえ、そこに感じられる「栴檀の芳り」はまさにモーツァルトだからこそ言うことのできるものである。 このミラノ様式による試みが後にディヴェルティメント K.136~K.138 を生み、ミラノ四重奏曲 K.155~K.160 へ続く。

〔演奏〕
CD [WPCC-4114] t=10'06
バリリ四重奏団 : Walter Barylli (vn), Otto Strasser (vn), Rudolf Streng (va), Emanuel Brabec (vc)
1955-56年頃、ウィーン
CD [Deutsche Schallplatten 25TC-308] t=13'55
ミリング弦楽四重奏団
1986年

〔動画〕

 

 

Giovanni Battista Sammartini

1700頃 - 1775

ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニの生年ははっきりしない。 18世紀のイタリアを代表する作曲家の一人。 ということは、世界を代表する音楽家の一人だったと言ってよい。 のみならず、音楽の歴史において大きな転換期に立っていた。

さて、バロック音楽の下限の年が、どうして1750年とされたのであろうか。 それもあくまで便宜的なものにすぎないのだが、この年にバロック音楽の最後を飾る、というよりもバロック音楽の最大の巨匠ヨハン・ゼバスティアン・バッハが世を去っている。 この音楽家は、その晩年にはすでに時代おくれの保守的な人物と見なされていた。
事実、そのころのイタリアの音楽はすでにベルゴレージ(1710-36)、ミラノのサマルティーニ(1700ころ-75)らの創作を通じて、古典派への移行の傾向を見せはじめているのである。
[皆川] pp.36-37
ミラノ Mirano という町の名前は「中央の場所 Medioranum」という言葉に由来すると言われ、ローマ時代から栄えていた都市であるが、とくにオーストリア・ハプスブルグ家が統治した1706年から約150年間は、政治・経済・文化のあらゆる面で最も輝いていた時代であった。 ちょうどその栄華の始まりとともに生まれ、ミラノ大聖堂はじめ、あちこちの教会の楽長を歴任していたのがサンマルティーニだった。 その頃のミラノの人口は約12万人だったといわれる。

1770年2月、父レオポルトに連れられてミラノを訪れた14歳のモーツァルトの類まれな才能を目の当たりにしたサンマルティーニは驚愕したという。

1770年2月10日、ミラノのレオポルトからザルツブルクの妻へ
ヴォルフガングがマエストロ・サンマルティーニや多くの堪能な人たちを前にして、知識をみずから示し、一同をびっくりさせたことを詳しくおまえに物語るとしたら、いささか長すぎることになるでしょう。 どっちみち、おまえはこうした場合にどんなことが起こるかはしばしば十二分に見てきたはずです。
[書簡全集 II] p.66
他方、その当時の権威をはじめ、音楽に精通した人たちとの出会いは、モーツァルトにも大きな刺激を与えたであろう。 サンマルティーニは多くの歌劇、シンフォニア、器楽曲を残しているが、弦楽四重奏の前身となる4声の様式の作品も書いている。 モーツァルトの最初の弦楽四重奏曲はこうして生まれたものである。 ただし、のちに弦楽四重奏の傑作を続々と書いて、その分野を確立したハイドンはサンマルティーニを「ヘボ音楽家」と呼んだことがあるというが。

兄ジュゼッペ(Giuseppe Baldassare Sammartini, 1695-1750)も作曲家、またオーボエ奏者として、ミラノとロンドンで活躍した。
イタリア音楽研究家ジェンキンズ(Jenkins)とチャージン(Churgin)により彼らの作品は「J-C」付きの番号で整理さている。

〔動画〕


 

〔参考文献〕

 

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2013/11/24
Mozart con grazia