Mozart con grazia > ソナタ > 変ロ長調 |
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K.10 ソナタ 変ロ長調
〔作曲〕 1764年8〜9月 ロンドン |
1763年6月から1766年11月までの約3年半に及ぶモーツァルト一家の西方への大旅行中、1764年4月にパリからロンドンに移動している。 そのとき6曲からなる「ヴァイオリンまたはフルート(およびチェロ)の伴奏で演奏できるクラヴサンのためのソナタ」が作曲された。 その目的は(当時20歳の)英王妃シャーロット(Charlotte Sophie, 1744-1818)に献呈するためであり、1765年1月に「作品3」として出版された。
1764年11月27日これら6曲(変ロ長調 K.10、ト長調 K.11、イ長調 K.12、ヘ長調 K.13、ハ長調 K.14、変ロ長調 K.15 )は「ロンドン・ソナタ」と呼ばれ、この曲はその第1番。 この献呈に対する報酬は50ギニーだったという。 王族に版刻された印刷譜を献呈することは当時の一般的な習慣であり、多額の報酬を得ることは作曲家にとって名誉であるだけでなく、当然収益を期待するものだった。 1764年7月から11月までの間、レオポルトは自身の病気療養のせいもあり「170ギニー以上のお金を減らして暮らしている」と嘆いていたので、「ロンドン・ソナタ」で得た報酬は(満足できるものだったかどうかわからないが)ありがたかったに違いない。 しかし手っ取り早く稼ぐにはやはり姉弟の演奏会を開くことであり、一度に100ギニー以上の収入を得ることができたという。 それにしても他の催し物が、レオポルトの言葉によれば「うんざりするほど」たくさんあり、期待するほどの収入は得られなかった。
私はわれらがヴォルフガング氏の6曲のソナタを版刻し、印刷させるという大きな出費をしました。 これらのソナタは、大ブリテンの王妃ご自身のご要望によって、王妃に献呈されます。[書簡全集 I] p.189
モーツァルトはバッキンガム宮殿に1764年の4月と5月の二度訪問し、1760年に即位した国王ジョージ三世(1728-1820)に拝謁している。 そこではクリスティアン・バッハ(当時29歳)が王妃シャーロットの音楽教師をつとめていた。 モーツァルトは神童ぶりを発揮して一堂を驚愕させつつ、クリスティアン・バッハの作品を貪欲に吸収していった。 アインシュタインは
かくて1765年1月にイギリスの王妃シャーロットに献げた作品三番の六曲のソナタは、単にショーベルトとヨーハン・クリスティアーンがこもごも混り込んでいるという点で両者の影響を示しているばかりでなく、一曲ごとにますますモーツァルト自身を示している。 モーツァルトは彼の仮のモデルをいわばスプリングボードとして利用する──彼はいっそう高く飛び、いっそう遠くへ達する。と評している。 これら6曲はケッヘル旧全集から第6版まで「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」とされていたが、新全集では「ピアノ三重奏曲」と位置づけられている。 したがって、この作品は「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ第5番」または「ピアノ三重奏曲第1番」ということになる。[アインシュタイン] p.175
余談であるが、1765年3月ロンドン滞在中のこと、ロンドン塔を訪れたとき、ライオンの激しい吼え声が少年モーツァルトをびっくりさせたという。
〔演奏〕
CD[POCA-2064] t=11'21 デーリング Waldemar Döling (hc), ブランディス Thomas Brandis (vn), ベトヒャー Wolfgang Boettcher (vc) 1972年、ベルリン |
CD[PHILIPS PHCP-9081-2] t=8'24 ヴェルレ (hc), プーレ (vn) 1974-75年 |
CD[EMI VD 77600] t=10'57 モーツァルト・トリオ(ピアノ三重奏) 1979年 |
〔動画〕
〔参考文献〕
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