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ソルフェージ K.393 (385b)
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コンスタンツェのために書かれたソルフェジョ(solfeggio 読譜練習曲)集。 完成したものが5曲あるほか、冒頭数小節のみの断片が6曲あるという。 第1曲には「わがいとしのコンスタンツァのために」との書き込みがある。 第2曲はのちの「ハ短調ミサ」(K.427)のキリエ楽章中 Christe eleison で使われている。
モーツァルトは1782年8月4日にコンスタンツェと結婚したころ、彼女の歌唱練習のために書きはじめたのがこのソルフェージだった。 その目的ははっきりしないが、彼女の姉アロイジアと同程度の歌唱力を身につけさせて、オペラ歌手として売り出したいという願いがあったのだろう。 アロイジアこそモーツァルトがその美貌と歌唱力に惚れて自分の音楽家人生を賭けてもよいと思った女性だった。
1778年1月17日、マンハイムからザルツブルクの父へそのころモーツァルトは自分が作曲し、そしてアロイジア(当時16歳)が歌えば、音楽の本場イタリアでも十分に通用し、大儲けできるとさえ考えていたのである。
彼女はほんとうにまったくすばらしく歌をうたいます。 そして美しい澄んだ声をしています。 彼女に不足しているのは演技力だけで、それさえあれば、どんな劇場でもプリマ・ドンナになれるでしょう。[書簡全集 III] p.426
1778年2月4日、マンハイムからザルツブルクの父へもちろん父レオポルトは息子の途方もない夢物語に猛反対し、その結末についてはよく知られている通りであるが、あれから約4年後、今度は父の猛反対を押し切ってコンスタンツェと結婚したモーツァルトはもう一度その夢を見ようとしたのではないだろうか。 しかし現実は甘くなく、オペラ作曲の機会はなかった。 そればかりでなく、残念ながらコンスタンツェの歌唱力と演技力にそれほど期待できそうもないことをモーツァルトはみずから思い知ったのだろう。
お願いですから、ぼくらがイタリアへ行けるよう、最善をつくしてください。 ぼくの最大の願いが、オペラを書くことにあるのは御存知の通りです。
ヴェローナに行ったら、ぼくはオペラを50ツェッキーニでよろこんで書きます。 それで彼女の名声が高まればいいのです。 もしぼくが書かないと、彼女が犠牲になるんじゃないかと心配です。
モーツァルトは、ザルツブルクへ里帰りして、新曲のミサと新妻を父と姉に披露するのが最善だと考えた。 そのミサに妻コンスタンツェがソロ歌手として出演することで彼女のプライドが保たれるし、一石二鳥になると思ったとしても不思議ではない。 その結果、このソルフェージの目的はコンスタンツェが「ハ短調ミサ」で歌うための練習用となり、そのときの必要に応じて書き足されたのだろう。 第3曲は、タイソンの自筆譜の研究により、ザルツブルク滞在中に書かれたものであるという。
近年の自筆譜研究では、第1曲の自筆譜(散逸)は縦長16段、第2曲のそれ(同じく散逸)は横長12段の五線紙を使用しているほか、第4曲、第5曲も12段五線紙であるが、第3曲アレグロは横長10段のものを用いていることから、少なくともこの第3曲はザルツブルクで手に入れた五線紙であり、したがって、ザルツブルクで『ハ短調ミサ』に出演する予定のコンスタンツェの声楽練習用として、ザルツブルク滞在中に書かれたことが明らかとなっている。[書簡全集 V] p.426
この練習曲集によってコンスタンツェの歌唱力を推測することができる。
モーツァルト研究の第一人者のひとり野口は各曲を詳しく解析したうえで、「総合するとコンスタンツェは声域といい、テクニックといい、かなり立派なソプラノ歌手であったと思われる」と評価し、「ハ短調ミサ」という「偉大なトルソー」への出演において「モーツァルトの要求を過不足無く受け入れられたのであろう」と結論づけている。
また、ド・ニも「ハ短調ミサ」の第一ソプラノ独唱はコンスタンツェを念頭において書かれていることは間違いないとして、彼女は「美しいソプラノの声をもっていた。
声楽や音楽の才能については確かな資料が残っている」と高く評価している。
その「確かな資料」とはこの練習曲集を指しているのだろうか。
他方、彼女にあまり好意的ではなかったアインシュタインは直接的な言及を避け、大作「ハ短調ミサ」を初演するザルツブルク宮廷楽団の腕前を讃え、遠回しにコンスタンツェの歌唱力はそれほどではないと見ていたようである。
確実なことは、もしザルツブルクの教会楽士たちがこの大作を1回の試演で練習完了したとすると、彼らは有能で習練を積んだ連中だったにちがいないということである。モーツァルト夫妻のザルツブルク滞在は1783年7月から10月までの間であるが、肝心の「ハ短調ミサ」のためのリハーサルは10月下旬(姉ナンネルの日記によれば10月23日)になってやっと行われたようであり、すると、それまでの間はコンスタンツェの個人レッスンを続けていたのだろう。 本番は26日に聖ペテロ教会で行われ、そしてモーツァルト夫妻は翌27日にさっさとザルツブルクを離れた。[アインシュタイン] p.470
確かに、もしコンスタンツェの歌唱力が人並み以上のものであったら、モーツァルトは彼女のためにもっとたくさんの作品を書き残したとしても不思議でないが、それがないことを考えると、大舞台の人前で披露できるほどの力量はなく、平凡なもの(せいぜい親しい音楽仲間うちで歌って楽しむ程度のもの)だったかもしれない。 確実に言えることは、コンスタンツェの歌唱力は姉アロイジアに到底及ばないものだったということだろう。
〔動画〕
〔参考文献〕
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