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セレナード 第9番 ニ長調 K.320
〔作曲〕 1779年8月3日 ザルツブルク |
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パリで母を失い、この年の1月、モーツァルトは負け犬となって帰郷した。
それからザルツブルクを抜け出す機会を待っていたところ、翌年10月、ミュンヘンの選帝侯カール・テオドールからオペラの作曲が依頼されることになる。
1781年の謝肉祭のオペラ『クレタ王イドメネオ』である。
パリへたつ前、マンハイムで長々と(父レオポルトから見れば)遊んでいたのは無駄ではなく、そこで出会い、すぐに仲良くなった多くの人脈が形成されてなければ、このような幸運も到来しなかったかもしれない。
選帝侯の依頼による作曲のためならば、モーツァルトの旅行を大司教も認めざるを得なかった。
そして1780年11月5日、モーツァルトは大喜びでミュンヘンに出発することになる。
このように悶々とする気持ちで過ごしていたであろう1779年の夏、このフィナールムジークが作曲された。
この曲は第6楽章の第2トリオで、ポストホルンという珍しい楽器が使用されていることから、通称「ポストホルン・セレナード」と呼ばれて、よく知られている。 郵便(ポスト)馬車の御者が吹き鳴らすラッパ(ホルン)をわざわざ使ったことにモーツァルトが特別な意味を込めているのだろうと考えるのも無理はなく、これについては、アインシュタイン評
この野心的な作もやはりコロレドと関連があると考えられよう。 なぜなら、第1楽章では、モーツァルトと大司教との関係が、単に音楽的・象徴的にであるとはいえ、やはりはっきりと、ユーモラスに描かれているからである。が有名である。 しかし、このような意図を作曲者が持っていたかどうかは確かめようがない。 また、モーツァルトはむき出しの感情をそのまま音楽にする野暮な作家でもない。 現在は、この曲はモーツァルトにとって最後のフィナールムジークとされ、大学の卒業生の旅立ちを象徴する意味でポストホルンという珍しい楽器が使用されたと思われている。
<中略>
戦闘的性格は第2主題で完全な対立に発展する。 これはヴォルフガングの懇願をいっさい頑固にはねつける大司教である。 なにも気づかない大司教にこれを聴かせ、この肖像によって理想的な復讐をしてやろうということがたしかにモーツァルトの頭にある。
<中略>
第2メヌエットのトリオには一対の新しい楽器が現れる。 2オクターヴ高いところでヴァイオリンと併進行するピッコロ・フルートと、きわめて原始的な和音でヴォルフガングの憧れ(ザルツブルクを離れたいという憧れ)に、ユーモラスな表現を与えるポストホルンである。[アインシュタイン] pp.295-296
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その後、この曲の消息として、以下が知られている。 すなわち、姉ナンネルの日記にモーツァルトが書き入れた部分(1779年9月24日)があり、
9時、大学広場のデール氏のところ。 路上でナハトムジーク。 最新のフィナールムジークから行進曲。 シュヴァーベンの民謡は陽気。 そしてハフナームジーク。 早朝、雨降る。 午後、よい天気。のところの「最新のフィナールムジーク」とあるのがこのセレナードであるという。 また、行進曲は K.335 (320a) である。 さらに1783年3月23日、ブルク劇場で音楽会が催され、このセレナードの第3楽章が演奏されたことをモーツァルトは父へ書き送っている。 また、のちに3つの楽章を抜き取ってシンフォニーにしようとしたり、2つの楽章で協奏交響曲にしてもいる。[書簡全集 IV] p.411
〔演奏〕
CD [CLASSIC CC-1029] t=40'57 ベーム指揮ベルリン・フィル 1976年 |
CD [ワーナー WPCS-6126] t=47'55 ダム (post-hr), 他, アーノンクール指揮ドレスデン・シュターツカペレ 1984年 |
CD [PHCP-9016] t=45'04 メント Gottfried Menth (post hr), 他, ヴェーグ指揮 Sandor Vegh (cond), ザルツブルク・モーツァルテウム・カメラータ・アカデミカ合奏団 Camerata Academica des Mozarteums Salzburg 1988年12月、ザルツブルク・モーツァルテウム |
〔動画〕
交響曲 ニ長調 K.320
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セレナード「ポストホルン」K.320 の改編。 第1、第5、第7楽章から成り、ポストホルンが出てくる第6楽章は含まれていない。 1784年6月9日の父への手紙に、ドナウエッシンゲンのフォン・フュルステンベルク公爵に献呈するために3曲のシンフォニーを版刻に渡すことを書いていて、その一つがこの交響曲と見られている。 この曲の筆写譜について、[西川](pp.214-218)が詳しい。 なお、モーツァルトとフォン・フュルステンベルク公爵の縁については、ピアノ協奏曲第19番ヘ長調(K.459)で説明。
〔演奏〕
CD [ポリドール FOOL-20372] t=22'21 ホグウッド指揮 1979年 |
CD [SONY SRCR-8623〜4] t=22'56 ヴァイル指揮ターフェルムジーク・バロック管弦楽団 1991年 |
協奏交響曲 ト長調 K.320
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セレナード「ポストホルン」K.320 の改編。 第3、第4楽章から成る。 1783年3月23日、ブルク劇場で第3楽章が演奏された。
1783年3月29日、ザルツブルクの父へそして演奏された曲目を詳しく列挙し、その中にこの「コンチェルタンテ」をあげている。
ぼくの演奏会の成功について、あれこれ語るまでもないと思います。 たぶん、もう評判をお聞きになったでしょう。 要するに、劇場はもう立錐の余地がないほどで、どの桟敷席も満員でした。 なによりもうれしかったのは、皇帝陛下もお見えになったことです。 そして、どんなに楽しまれ、どんなにぼくに対して拍手喝采してくださったことか。[書簡全集 V] p.351
〔動画〕
〔参考文献〕
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