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K.6 ソナタ ハ長調

  1. Allegro ハ長調 4/4 ソナタ形式
  2. Andante ヘ長調 2/4 二部形式
  3. Menuetto ハ長調 3/4
  4. Allegro Molto ハ長調 2/4 ソナタ形式
〔編成〕 p または p, vn
〔作曲〕 1762年夏〜1764年1月 ザルツブルク、ブリュッセル、パリ
7才のモーツァルト
ロレンツォーニ作

モーツァルトは生涯にわたって40曲を越えるピアノとヴァイオリンのためのソナタを作曲しているが、その第1番。 ただし、ピアノといっても、最初はチェンバロ(クラヴサン)のことであり、また、ヴァイオリンの役割は非常に小さい。

モーツァルトはピアノとヴァイオリンのためのまじめな作品を、ほとんど22歳になってマンハイムではじめて開始した。 《まじめな》作品というのは、マンハイム・ソナタの最初のものよりまえに、パリとロンドンとハーグではじめての試み、つまり16曲を下らないソナタを含む4つの作品群(K.6-7, 8-9, 10-15, 26-31)があるからである。 これらは少年の音楽的発展を見るにはこのうえなく興味をひくものであるが、ほとんど伴奏ヴァイオリンを伴うピアノのための練習用ソナタでしかなく、またそれ以上の価値を持たない。 これらのソナタの楽章の多くは、元来ピアノだけのための曲として存在したのである。
[アインシュタイン] p.345
こうもバッサリ切られては身も蓋もないが、確かにこの最初のソナタはピアノ用に作曲された小品にあとで簡単なヴァイオリンのパートを付け足したものである。 しかもこのソナタは最初から一つの作品として書かれたものではなく、ばらばらに作曲された小品をまとめたものであった。 すなわち、第3楽章のトリオは1762年7月16日にザルツブルクで作られ、第1楽章の原曲となるものは1763年10月14日ブリュッセルで作られ、「ナンネルの楽譜帳」の余白に父レオポルトが書き残したものであった。 そして終楽章は1764年1月パリで、当地で活躍していたドイツ系の作曲家ショーベルト(Johann Schobert, 1735? -67)を手本にして作られたものである。 レオポルトは故郷の家主ハーゲナウアー宛に知らせている。
1764年2月1日、パリ
ドイツ人たちが、作品の刊行の点では主役を演じています。 そのなかで、クラヴィーアではショーベルト氏、エッカルト氏、ホーナウアー氏が、ハープではホーホブルッカー氏とマイヤー氏がたいへんもてはやされています。 フランス人のクラヴィーア奏者ルグラン氏は自分の趣味をまったく捨て去っていて、彼のソナタは私どもの趣味にのっとっています。 シューベルト氏、エッカルト氏、ルグラン氏、それにホーホブルッカー氏は、彼らの銅版印刷したソナタをすべて私どものところへ持ってきてくださって、子供たちに贈呈してくれました。
[書簡全集I] p.119
レオポルトは一刻を争う事態を直感したにちがいない。
ヴォルフガングの教師、秘書、楽譜編集者、事業監督者として働くかたわらで、レーオポルトはパリ、ロンドン、オランダで(中央ヨーロッパとは違って)、ヴァイオリンの伴奏を伴う鍵盤楽器のためのソナタの印刷出版譜が愛好家のための一大市場を形成していることを目撃した。 数百もの印刷出版譜が18世紀半ばに公刊されていた。
[全作品事典] p.359
したがって、レオポルトには息子が今までに作曲していた小規模なソナタを大急ぎで寄せ集めて編集し、作品化して、パリで影響力の大きい貴族のパトロンに捧げなければならなかった。 そして、やはり小品をまとめた2番目のソナタ(K.7)とともに「作品1」として自費出版し、1764年3月にフランスの王女ヴィクトワール(Madame Victoire de France, 1732-99)に贈った。 さらに、3番目と4番目のソナタ(変ロ長調 K.8、ト長調 K.9)を「作品2」として出版し、同年4月にド・テッセ伯爵夫人に献呈したのである。
これらのソナタは次のように組み立てられた。 ヴォルフガングが勉強用の楽譜帳(たとえば『ナンネルの楽譜帳』、『ロンドンの練習帳』)に書き込んだ鍵盤楽器のための単一楽章の小品からいくつか選び出し、「ソナタ」を形成するために調やテンポに従って2曲、3曲、4曲、ないし5曲にグループ分けされた。 必要に応じて新たな楽章が作られたが、「元」の小品のなかには少なくとも1曲はおそらくレーオポルト自身の作品があっただろう。
レオポルトがハーゲナウアーに宛た手紙には、作品が仕上がった安堵感と、さらにその仕上がりが著名な作曲家たちのものと比べて遜色ないという自信とが書かれている。 そればかりか、「私どもが、神さまのおぼし召しで、帰郷いたしますまでには、宮仕えができるようになっています」とまで言い切り、自分たちは向かうところ敵なしであると思い込んでいたようである。
1764年2月


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1764年2月1日、パリ
今、ヴォルフガング・モーツァルト氏の4曲のソナタが版刻中です。 表紙にこれが7歳の童児の作品だと書いてあったとき、これらのソナタが世間でひきおこすだろう大騒ぎをご想像ください。
[書簡全集I] p.119
1764年2月22日、パリ
私たちはおそくも二週間後にふたたびヴェルサイユにまいりまして、偉大なるヴォルフガング氏の版刻されたソナタの作品第一番を、国王の第二王女マダム・ヴィクトワールにお手渡しいたしますが、この作品第一番はこのお方に献呈されます。 作品第二番はたぶんテッセ伯爵夫人に捧げられることになるでしょう。
同書 p.127
タンプルでの演奏
オリヴィエ作
ヴィクトワール王女はルイ15世の二女である。 同時にやはり大急ぎでまとめた「作品2」(K.8K.9)はド・テッセ伯爵夫人(Adrienne-Catherine Comtesse de Tesse, 1712 -57)に贈られているが、夫人はブルボン王家の系統をひく大貴族コンティ公(Louis François de Bourbon, Prince de Conti, 1717 -76)の寵姫である。 コンティ公は「聖堂騎士団副長をつとめ、『タンプル』と名づけられた修道院跡の宏壮な宮殿に住み、みずからかなり大がかりな楽団をかかえていた」という。 レオポルトはパリで活躍していたドイツ系の作曲家エッカルト(Johann Gottfried Eckard, 1735-1809)やショーベルトたちをモデルにして、この機会をものにしようと考えたのは当然である。
同じやり方でソナタを書き上げ、おなじやり方で出版することで、こうした音楽家たちに敬意を表し、かつパリの流行の趣味に迎合しようとしたのは、明らかにレーオポルトの戦術であったろう。
[海老沢] p.41
その戦術とは息子がフランス宮廷音楽家に取り立てられることを目的としたものと思われ、2つの作品を大貴族夫人に献呈することでうまくことが運ぶことを期待していた。 ハーゲナウアーに宛てた2月22日の手紙には次のように続けられている。
三週間から、おそくとも四週間あとには、神さまのおぼし召しがあれば、重大なことが起こるはずです。 私どもは立派に畠を耕しました。 そこでまた立派な刈り入れが望まれるのです。
[書簡全集I] p.127
このように重大な使命を帯びた2つの作品にはグリムが献呈のフランス語文を書いてそれぞれの相手に贈られたが、「作品1」は次のタイトルからはじまっている。
SONATES
POUR LE CLAVECIN
Qui peuvent se jouer
avec l'Accompagnement de Violon
DEDIÉES
A MADAME VICTOIRE
DE FRANCE
Par J.G. Wolfgang Mozart de Salzbourg
Age de Sept ans

ŒUVRE PREMIERE
パリ、1764年3月
クラヴィーアのためのソナタ。 ヴァイオリンの伴奏による演奏も可能。 ザルツブルク出身の7才のJ.G.ヴォルフガング・モーツァルトからフランスのヴィクトワール王女に献呈。 作品1。
[ドイッチュ&アイブル] p.29
余談であるが、テッセ伯爵夫人のための「作品2」にグリムが最初に書いた献辞の文を伯爵夫人が受け付けなかったので、グリムは献辞を書き直したという。 そのせいで版刻が遅れたことをレオポルトは残念がっていたので、ことはそう簡単に運ばなかったようである。 7才の少年が宮廷音楽家になることは同郷の先輩音楽家たちにとっても望ましいはずはないであろう。 「パリ楽派」とも呼ばれ、当時パリで大活躍していたドイツ人音楽家たちを差し置いて、モーツァルトが宮廷に急接近するのは簡単なことではない。 しかも彼らが人前で体面を失うようなことが頻繁に起きていたのだから、むしろ妨害があったと想像する方が自然である。
1764年2月1日、パリ (ハーゲナウアー夫人に)
あなたに申し上げられることは、神さまが日々新たな奇蹟をこの子供におこなってくださっておられることです。 私どもが、神さまのおぼし召しで、帰郷いたしますまでには、宮仕えができるようになっています。 この子は、実際いつでも公開の演奏会で伴奏しています。 この子は、伴奏をするとき、アリアを初見で移調さえいたします。 またいたるところで、イタリアの曲を出されても、フランスの曲を出されても、この子はそれらの曲を初見で弾いてしまうのです。
[書簡全集I] pp.119-120
しかも7才の少年だけでなく、12才の少女(ナンネル)もまた天才であった。 その手紙に続けて書いている。
娘は、私が今持っているショーベルトやエッカルトなどの最大の難曲を弾いていますが、そのなかでもエッカルトの曲は、信じがたいほどの明快さを備えながら、かなりむずかしいものでして、そのため卑劣な人物のショーベルトは嫉妬心や羨望を隠しておくことができず、立派な人物のエッカルトさんや大勢の人たちのところで物笑いの種になっています。
同書 p.120
ただし、ショーベルトに対するレオポルトの否定的な評価はそのまま鵜呑みにできない。 レオポルトは、コンティ公に仕えて羽振りがいいショーベルトをたぶん疎ましく感じていたのであろう。 モーツァルト一家は1763年6月9日、西方への大旅行に出て、行くさきざきで姉弟は奇蹟を実演し賞賛を得ていた。 しかもいきなり国王をはじめ大貴族の御前で屈託無い振る舞いさえ許されていたのである。 それはひとえに姉弟がまだ幼い子供だったからであるが、父レオポルトは目が眩んで、もっと大きな野望を抱くようになっていた。 ともかく、モーツァルトがフランス大革命の前夜という時期に宮廷入りできずに終ったことは幸運だったのではないだろうか。 このあとモーツァルト一家はロンドンに向かって旅立った。

これら K.6~K.9 の4曲を「パリ・ソナタ」と呼ぶこともあり、モーツァルトの最初の多楽章形式のソナタ楽曲である。 アインシュタインのそっけない評価から半世紀も経ないうちにこれらのソナタの真価は見直されている。 ザスローは「パリ・ソナタ」に続く作品3「ロンドン・ソナタ」(K.10K.15)と作品4「ハーグ・ソナタ」(K.26~K.31)とを含めて、次のように評価している。

その結果として生まれたのは、上記の都市で当時出版されていた他の多くのソナタとは様式、長さ、難しさにおいてさほど違わない、十分に満足できるギャラントなソナタであった。
[全作品事典] p.359
少年モーツァルトは、最初の作品で早くも当時の著名な作曲家と肩を並べるまでになっていたのだった。
これらのソナタ作品で、7歳のモーツァルトは、すでになんと多様なひびきの世界をあらわにしていることだろうか。 装飾音に多彩なかたちでいろどられた優美な楽章もあれば、堂々とした、技巧美にみちたアレグロ楽章もある。 さわやかなメヌエットには、対照的に沈んだ情調の短調の第二メヌエットがつづいて、明暗の妙をあらわにしていることもある。 変ロ短調と、その後のモーツァルトには考えられない調号を執るメヌエットさえある。
モーツァルトのこれらの4曲のソナタは、そうしたモデルに拠りながらも、響きや楽曲形式、そして全体の構成や様式の点で、すでに独自な境域をおのれのものとし、はやくも彼らに肩を並べているというべきだろう。
[海老沢] pp.40-41
海老沢は具体的にこの曲(K.6)の第3楽章に第2メヌエット(トリオ)として取り込まれた「メヌエット ヘ長調」(1762年7月16日)を詳しく解説したうえ、次のように高く評価している。
この第二メヌエットは、流れるような旋律を中心とする第一メヌエットと程良いコントラストを見せている上に、しめくくりのフィナーレ楽章アレグロ・モルトの飛び跳ねるような動きともすばやく調和して、7歳の作曲家の抜群の形式感をあらわしているのだ。
同書 p.45
なお、2曲を一組として出版することはドイツ系の作曲家たちが試みていたものであるという。 他方、ソナタという表現方法が出現し、1760年代にはまだ確立はしていなかったが、やがて交響曲・協奏曲をはじめあらゆる分野で適用されようとする時代的背景も、このパリ・ソナタの誕生に関係している。 そしてまた、レオポルトにとって好ましくない人物と思っていたショーベルト(当時30才前後)ではあるが、少年モーツァルトは彼から大きな影響を受けたことは事実である。
エッカルトによって彼はフィーリプ・エマーヌエル・バッハのソナータ形式に接したのだが、この影響はショーベルトによって及ぼされた魅惑にくらべれば、ごく表面的なものにすぎなかった。
実際、この二人の音楽家の類縁性は実に大きいのだが、それは次の二点についてだ。 すなわち主旋律の主題の振幅の大きさと悲愴感もしくは喜びを突然爆発させる傾向である。
ショーベルトはその子に音楽芸術の詩的役割をはじめて教え、彼の天才の最も根本的な可能性を自覚させたのだ。
[オカール] p.27
音楽学者ドナルド・フランシス・トーヴィによれば、「ソナタ形式の幼児期がモーツァルトの幼児期と平行していたのが幸運であり、もし少しでも早かったり遅かったりしていたら、彼の幼い頃の作品が、音楽の世界全体と歩調を合わせることはなかったであろう」。
[ソロモン] p.93
「セレナータ ニ長調」

モーツァルトの最初のソナタにあたるこの曲は4楽章から成るが、ソナタの中でこの楽章数はほかにない。 以前に書いた小品3曲だけではもの足りず、パリに来てから知ったショーベルトの作品からテーマを得て、最後の楽章を追加したからであろう。 その発案もやはりレオポルトによるものと考えられる。 作曲家でもあった父レオポルト(当時43歳)は1762年8月頃に9楽章から成る「オーケストラのためのセレナータ ニ長調」を作曲していて、その第4・第5楽章は有名な「トランペット協奏曲ニ長調」として知られているが、他方、第3楽章とこの「ソナタ」(K.6)との関係はあまり知られていない。

(レオポルトのセレナータ第3楽章では)ニ長調のはなやかなメヌエット主部が終ると、当然ながらトリオがつづく。 そのトリオはなんとあの『メヌエット ヘ長調』(K6の第二メヌエット)なのだ。 ト長調に移され、弦を中心として、わずかにオーボエとホルンが加わるこのオーケストラのメヌエットは、ここでも全曲の中でなかなか印象的な響きを聴かせる。
おそらくは1762年作曲と思われるこのレーオポルトの『セレナータ ニ長調』は、こうして、息子が同じころ作曲したメヌエット作品を必要な構成要素として取り込んでいるのだ。 作曲家としてのレーオポルトが、作曲家としての息子ヴォルフガングに対しておこなった表敬行為とでもいえようか。 レーオポルトは、このようなメヌエットをものした6歳の息子ヴォルフガングを、すでに一人前の作曲家として遇し、誇らかにその存在を認めつつ、なお、息子の前にひろがる無限の道を見やったにちがいない。
[海老沢] pp.46-47
このような事態に直面し、レオポルトは作曲家としての道を断念し、息子のために人生のすべてをかけようと決心したかもしれない。
モーツァルト学者のヴォルフガング・プラートは、範囲を最大限に広げてみても、レオポルトは「1762年以降はほとんど作曲しておらず、71年以降は皆無である」と言っている。 またアイゼンによれば、1771年頃までは彼の作品は演奏されていたし、時には旧作の焼直しもあった。 が、「1762年以降に、レオポルト・モーツァルトが完全に新しい作品を書いたというはっきりした証拠は何もない」のである。
[ソロモン] pp.64-65
やがて息子ヴォルフガングが自分の手を離れ、自分の影響がまったく及ばない遠い世界に飛び立ってゆくとは露知らず、レオポルトは幸福の絶頂にあった。
レオポルトはこの子を音楽の神童として教育しようと思い立つ。 レオポルトの運命は急転し、いかに努力しても叶わなかった彼の脱階級の夢が、神童教育を施すことによって実を結ぶことになる。 「驚異の神童」の前に、どこの貴族もみな門を開いてくれた。 ウィーンはハプスブルク家のマリア・テレジア女帝、パリはヴェルサイユ宮のルイ15世、ロンドンはジョージ3世と、今をときめくヨーロッパ一流の宮廷にわが子を連れたレオポルトは足跡を印し、親しく王侯貴族たちと語り合うことができた。 夢のような瞬間であった。
[石井] p.307
このソナタ(K.6)は、レオポルトによる「神童教育」の本格的な始まりを示す第一歩であった。

〔演奏〕
CD [東芝EMI TOCE-6725-30] t=13'14
クラウス Lili Kraus (p), ボスコフスキ Willi Boskovsky (vn)
演奏年不明
CD [PHILIPS PHCP-9081-2] t=12'35
ヴェルレ Blandine Verlet (hc), プーレ Gerard Poulet (vn)
1974年6月、75年1月
CD [音楽出版社 OACD-2] t=8'25
小林道夫 Michio Kobayashi (hc), 岡山 潔 Kiyoshi Okayama (vn)
1991年8月、松伏田園ホール・エローラ

〔動画〕

〔参考文献〕

 

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2018/07/22
Mozart con grazia