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アンティフォン 「彼らを養いたまえり」 イ短調 K.44〔編成〕 SATB, og〔作曲〕 1770年9月か10月初 ボローニァ |
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1769年12月13日、少年モーツァルトは父に連れられて初めてのイタリア旅行に出た。 各地で噂に違わない神童ぶりを披露し、喝采と賞賛を浴びたことは言うまでもないが、旅の真の目的はそのような猿回し的興行ではなく、音楽の本場イタリアで「直接その音楽に触れること」そして「プロの音楽家から認められること」であり、1771年3月28日までの1年半近くの滞在でその両方を勝ち得ることができたのだった。 具体的な収穫としては、ミラノでオペラ・セリア『ポント王ミトリダーテ』(K.87)の作曲と初演、またボローニャでマルティーニ師から直接教えを受けたこと、そしてその結果としてボローニァのアカデミア・フィラルモニカの試験に合格したことなどがよく知られている。
アカデミア・フィラルモニカの試験は1770年10月9日に行われ、アンティフォン『まず神の国を求めよ ニ短調 K.86 (73v)』を書き上げたことからアカデミア会員の資格が授けられたのだったが、この曲はその練習のために作曲したものといわれ、ケッヘル番号は直前の K.73u に位置づけられていた。 しかし現在は、モーツァルトの真作ではないとし、マルティーニ師の手本を少年モーツァルトが筆写したものと推定され、新全集には載っていない。 その理由はアンティフォン『まず神の国を求めよ』や同時期の『ミゼレーレ イ短調 K.85 (73s)』などと比べて、書法がはるかに成熟し、譜面にも書き損じや訂正がないことであるという。
〔歌詞〕(詩篇第81篇第16節から)
Cibavit eos ex adipe frumenti alleluja Et de petra melle saturavit eos alleluja |
神は彼らを精製した小麦粉で養い給うた アレルヤ また、岩から出た蜜で飽かせ給うた アレルヤ CD [UCCP-4078] |
〔演奏〕
CD [PHILIPS 422 749-2〜753-2] t=2'00 ライプツィヒ放送合唱団, ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団 1990年5月、ライプツィヒ |
CD [UCCP-4078] t=2'00 ※上と同じ |
〔動画〕
〔参考文献〕
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