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フリーメーソンのための葬送曲 ハ短調 K.477 (479a)

Masonic Funeral Music (Maurerische Trauermusik) in C minor
  • Adagio ハ短調 2/2 三部形式
〔編成〕 2 vn, 2 va, cl, basset-hr, 2 ob, 2 hr, bs
〔作曲〕 1785年11月10日頃? ウィーン

1785年11月

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11月6日と7日に相次いで死去した結社員フォン・メクレンブルク公爵(Georg August Herzog von Mecklenburg-Strelitz, 1748-85)とエステルハージ伯爵(Franz Reichsgraf Esterházy von Galantha, 1715-85)のために。 メクレンブルク公爵はオーストリア帝国陸軍少将で、フリーメーソンの分団「三羽の鷲」の代表親方(マイスター)であった。 また、エステルハージ伯爵は王室の役職を歴任した高級役人で、分団「桂冠希望」の会員であった。 ともに重要人物であり、11月17日に分団「桂冠希望」で追悼式が行われ、そのときこの曲が演奏された。 ところが不思議なことに、作曲者自身は自作目録に「7月、盟友メクレンブルクとエステルハージの死去に際して」と記載している。 しかしこれは二人の盟友の死去より4ケ月も前のことであり、謎である。 二人の死を前もって知って作曲していたとは考えにくい。 ケッヘル番号では、K.477(7月)また K6.479a(11月)となっている。
このような作曲時期のズレ(謎)について、自作目録にこの曲と並んで同じ「7月」と記載されている「ピアノ四重奏曲ト短調」(K.478)も自筆譜には「10月16日」と書いてあることから、モーツァルトが目録に間違って記入したというのが通説(サン・フォワ)になっている。 ただし、7月に作曲されたことには間違いないとする異論もある。 このK.477の自筆譜には「葬送音楽」とだけ書かれてあり、目録にある「盟友メクレンブルクとエステルハージの死去に際して」の部分はあとから書き加えられたのかもしれないからである。

曲は 69小節、3部で構成されている。 新全集では交響曲の部に採録されているが、宗教的な意味を持った楽曲である。 タイトルに示されているように、メーソンの理念を象徴する部分が随所にあるという。

この曲は教会作品でこそないが、宗教的な楽曲である。 それはハ短調荘厳ミサ曲(K.427)とレクイエム(K.626)を結ぶきずななのである。 調性はあのミサ曲のキュリエと同じに選ばれている。 ミサ曲のなかでトロンボーンが暗示するものを、いまや管楽器群が堂々たるコラールや行進曲のなかで明言する。 すなわち悲嘆、厳粛、覚悟、慰籍である。 その気になれば、フリーメイスン精神のすべての象徴を、つまり平行三度および六度、スラー、戸をたたくリズムを、69小節のうちに見いだすこともできる。 それは、すでにあのキュリエを支配していた死への想念であり、ただ教会的なものがフリーメイスン的なものに変っているにすぎない。
[アインシュタイン] p.476
モーツァルトがフリーメーソンに入信した(分団「善行に向かって進む Zur Wohltatigkeit」に)のは1784年12月14日だが、最初の「従弟位階」から3ヶ月後には「職人位階」に、そしてさらにわずか1ヶ月後の1785年4月22日に第3の「親方位階」に昇進している。 コットによれば、第3の位階は「ソロモンの神殿の建築者であるツロの王、ヒラムの伝説を敷衍した位階である」という。
この人物は、聖書に何度か登場してくるが、その正体はあまり明確でない。 ヒラムの下にいた職人のうち、3人の人物が、親方の秘訣を知ろうと焦り、ヒラムを脅して秘訣をしゃべらせようとする。 そしてついにヒラムを殺してしまった。 無用の罪を犯したことに絶望した彼らは、夜間、遺体を村から遠く、林の近くに運び、その墓の上にアカシアを植えた。 石工の親方達は、悲しみにふけり、その後、3人ずつ次々と9方向にヒラム探索の旅に出かける。
[コット] p.137
ヒラムは復活することになるが、モーツァルトはこの伝説を(自作目録に記載された通りの「7月」に)音楽で表現した、それがこの葬送曲であるとコットは説明している。
曲は管楽器の陰鬱な呼びかけで始まる。 これに対して、弦楽器が、非常に性格の異った対位旋律で答える。 「至高の建築家(=ヒラム)」を捜す9人の親方の長い行列を喚起するのである。
ところで、11月17日の追悼式よりひと月前に分団はある演奏会を開いている。
1785年10月15日
二人の外国人同志を支援するために─先頃就職口を求めてヴィーンに来ながら、空しく待たされるばかりで、遂には困難な状況に陥り、ために目下決意した祖国への帰還もままならぬ事態になったバセットホルンの二人のヴィルトゥオーゾを支援するために、ツー・デン・ドライ・アードランとツム・パルムバウムの二つの尊き支部は来たる10月20日、木曜日6時半に演奏会を催します。
尊き同志モーツァルトとシュタードラーも演奏します。
[ドイッチュ&アイブル] p.181
クラリネット奏者のアントン・シュタドラー(32歳)は「ツム・パルムバウム」支部に入会したばかりだった。 また、バセットホルンの二人のヴィルトゥオーゾとは、アントン・ダーヴィト(Anton David)とヴィンツェント・シュプリンガー(Vinzent Springer)である。 モーツァルトは彼らのために、この葬送曲にバセットホルンのパートとさらにグラン・ファゴット(コントラファゴット?)を追加したものを12月9日に再演したと思われている。 そしてこの版が今日我々が聴いている「葬送曲 K.477」ということになる。 この大管楽器群は「背筋を寒くするものがあり、われわれを暗い予兆に満ちた世界に運んで行く」とロビンズ・ランドンはいう。
オーボエ2本、クラリネット1本、バセットホルン1本、ヴァルトホルン2本、さらにのちになおバセットホルンが2本にコントラファゴットが1本加えられて、弦5部という構成は、曲調にふさわしい沈鬱な情調に照応する音色を生み出し、かつ、ヴァイオリンの痛いまでに鋭い音と、低く暗い音域の管のひびきとが、見事なまでのコントラストを形づくっている。
ハ短調(それはフリーメイスンの調といわれる変ホ長調の関係調である)という、悲愴ともいうべき調号と、暗く沈んだ音調ながらも痛切に厳しい響きをあらわした曲調とが、まさにすべてを物語っていて、言葉、テキストの必要性を排除している。
[海老沢] pp.86-87
この葬送音楽に挿入されている管楽器による典礼主題について、アインシュタインは「この定旋律の由来と意味は、完全には解明されていない」と控えめに述べていたが、その後、「19世紀の聖歌集の研究の中で、旋律の同一性が誰の眼にもわかり、しかもモーツァルトの作曲意図にも適合する解決案」(コット)が明らかになった。 その主題は聖金曜日の聖務日課で歌われるエレミア哀歌の旋律と同一であることを譜例で示しながら、コットは「作品の、ほとんど描写的とも言える意味は明確になる」と言っている。
弦楽器は、ヒラムの職人達の彷徨を象徴し、一方、管楽器に委ねられたこの主題は、彼らの悲しげな思いを象徴する。 曲の最後で、希望を湛えた長調の終結和音が、「比類なき親方」の復活を告げる。
[コット] p.138
比類なき親方とはもちろんヒラムのことであり、モーツァルトはこのような意味を込めてヒラムの伝説を音楽的に表現したと言っているのである。 メーソンの儀式では、親方位階に昇進しようとする者はヒラムのように死から復活する(生き返る)疑似体験をしなければならないという。 ただしコットによる曲の解釈が作曲者の意図したものであるかどうかはわからない。
復活祭の週間に使われるという「エレミア哀歌」に似た「グレゴリオ聖歌」風の旋律について、海老沢はモーツァルトの生死観を感じ取っている。
死を生との密接なつながりのうちに捉えているフリーメイスン思想、あるいは1787年4月4日付けの父親宛の手紙に窺えるように、死を生の最終の目標として捉え、死を小暗いものとはけっして観ていないあの澄み切った生死観が踏まえられていながらも、しかもなお、あとに残された生者が死者を偲ぶ時に感じられる強い悲しみの、哀悼の情が、鮮やかに表面に浮び上がって、この上なく印象深い音響の世界を創り上げる。

〔演奏〕
CD [KING 250E 1217] t=5'42
ケルテス指揮ロンドン交響楽団
1968年、ロンドン
CD [Deutsche Grammophon 429 803-2] t=6'57
ベーム指揮ウィーンフィル
1981年頃
CD [UCCP-4061/70] t=5'42
シュライアー指揮ドレスデン国立管弦楽団
1988ー89年、ドレスデン

〔動画〕


 

マイスタームジーク (男性合唱と管弦楽のための) K.deest

〔作曲〕 1785年7月 ウィーン

上記のように、「葬送曲 K.477」の成立時期に謎があり、サン・フォワの「モーツァルトが自作目録に7月の日付で記入したのは本人の間違いであり、メクレンブルク公爵とエステルハージ伯爵の追悼式のために作曲されたもので、ほんとうは11月である」という説明に対して、コットは「今日まで、歴史家を納得させるだけの確証を得ていない」と疑念を呈して、次のように推察していた。

モーツァルトの親方位階昇進の数週間後に書かれたこの葬送音楽は、新たに拝受した教義を音楽で表したものであり、ロッジの兄弟の葬儀のために書かれたものでは決してない、という方がはるかに明快であろう。 作曲時には、この二人はまだ生きていたのだから。 ただし、この二人の栄誉を贊える葬礼の準備に時間がなく、性格的に全くふさわしいこの作品を葬儀に用いたということは充分ありうる。
[コット] p.138
フィリップ・オーテクシェは自作目録に記載された「7月」は間違いではなく、したがって二人の盟友のための葬送曲でなく、そしてまたモーツァルト本人の親方位階への昇進(4月)を祝うためのものでもなく、メーソン仲間のフォン・ケーニヒ(Karl von König)が8月12日に「親方(マイスター)」に昇進した際の祝儀式のために作曲したものという説を発表している。 その際、器楽演奏だけでなく、男性合唱もあったはずで、彼はそれを旧約聖書から採り、この曲の誕生から200年後の1985年に復元版を出版した。 そのため、この曲は「マイスタームジーク Meistermusik」とも呼ばれている。
このように別の動機により実際に7月に作曲していた「マイスター音楽」が先にあり、その後、合唱部分(グレゴリア聖歌の定旋律)を取り除き、11月に「葬送曲」として演奏したのだろうという。 すると目録にある「盟友メクレンブルクとエステルハージの死去に際して」の部分はあとから書き加えられたものとなる。
ザスロー編の[全作品事典]ではこの説に従って、「マイスタームジーク(親方の音楽)」(7月成立)をフリーメイスンの音楽の部に採録し、それに続いて「フリーメイスン葬送曲 K.477」(11月成立)を男性合唱の声部を取り除いた編曲と扱っている。 ただしこの説は定説となっているわけでない。

〔歌詞〕
Replevit me amaritudinibus
ebriavit me absynthio.
Inundaverunt aquae super caput meum
Dixi, Perii.
彼は私を若いもので飽かせ
にがよもぎを私に飲ませられた
水は私の頭の上に溢れ
私は「断ち滅ぼされた」と言いました
旧約聖書エレミア哀歌第3章第15節と第54節

〔演奏〕
CD [KKCC-162] t=5'31
コレギウム・ヴォカーレ、ヘレヴェッレ指揮シャンゼリゼ管弦楽団
1991年9月

〔動画〕


〔参考文献〕


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2017/07/02
Mozart con grazia