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オペラ Opera Part 5




K.527 罰せられた放蕩者またはドン・ジョヴァンニ (序曲と2幕24曲)

Il dissoluto punito ossia Don Giovanni (Don Juan). Dramma giocoso in due atti
編成:fl*2, ob*2, cl*2, fg*2, hr*2, tp*2, tb*3, timp, mand, vn*2, va*2, vc, bs
[ 87年夏〜秋 ウィーン、プラハ ] ダ・ポンテ詞。 プラハで束の間の幸せな時を過ごしていた頃、同地の歌劇団の支配人からオペラの依頼があった。内容はスペインの蕩児の行状の末路を描く滑稽劇(ドラマ・ジョコーゾ)。 ドラマはスペインの貴族ドン・ジョヴァンニによる騎士長(ドンナ・アンナの父)の殺害から始まり、その騎士長の亡霊の力によりドン・ジョヴァンニの地獄落ちをもって終る。 死で始まり死で終るこのオペラを悲劇と呼ぶことはできない。悲劇と喜劇、真面目と滑稽、戦慄と笑いが混じり合い、明と暗の中で進行し、一応ハッピー・エンドで終るが、 地獄に落ちたドン・ジョヴァンニの方がなぜか輝き、生き残り新たな生活に入る人たちの方が光を失って見える。父親殺しとその懲罰を内容とするこのオペラの作曲は、 春から夏にかけて、ちょうど父レオポルトの死を挟んだ時期に進められた。モーツァルトは実生活をそのまま作品に反映させるような作家ではなかったが、彼にとって絶対的な存在であった父の死はやはり大きな影響を作曲に与えている。

Bertramka 初演の2日前になっても序曲を書こうとしないので、業を煮やした劇場支配人グァルダゾーニと興業師ボンディーニは、ドゥーシェク夫人の別荘に歌手たちをつれて行き、一騒ぎした後、一計を案じてモーツァルトを音楽室に閉じ込めてしまったという。 こうして、序曲は初演の前の晩に書き上げられた。その序曲の最初のアンダンテは、騎士長の石像が来訪する場面から取られ、ドン・ジョヴァンニの宿命を暗示する。 続くモルト・アレグロは、ドン・ジョヴァンニ亡き後の人々の晴々とした雰囲気を表している。この作品を完成させたヴィラ・ベルトラムカというプラハ郊外にある屋敷(右の写真)は、1784年からドゥーシェク夫人の所有となり、 現在はモーツァルト記念館として公開されている。また、このオペラの自筆譜はパリの国立図書館に所有されている。 ただしプラハ音楽院図書館に残る楽譜(モーツァルト自身が目を通したものと言われる)には、後にウィーンで公演されたときには削除された問題の一節が書かれてある。 それは仮面をつけて訪れたアンナ、エルヴィラ、オッタヴィオを歓待するドン・ジョヴァンニが「自由万歳 Viva la liberta.」と歌うところであり、プラハでの初演の際、舞台の上の歌手たちが12回も合唱で繰り返したという。 おりしもフランスから届く革命の報告がウィーンの貴族たちの神経を尖らせていた。 モーツァルトには政治的な意図がなかったのかもしれないが、このオペラは多くの問題を含み、多様な解釈と想像をかきたてる傑作である。

騎士長が決闘に倒れるところをベートーヴェンは嬰ハ短調に書き換えてピアノ・ソナタ「月光の曲」を作った。 ただし、この「フィデリオ」の作者には「ドン・ジョヴァンニ」を理解することはできず、そして次のオペラ「コシ」は許せなかった。

リヒャルト・シュトラウスがカール・ベームに語った言葉

第1幕のフィナーレで、レポレロが仮面をかぶった3人を招き入れて、あの悲劇的な仮面の三重唱が始まる直前のアダージョの2小節を君は覚えているだろう。 もし僕がこの2小節を作曲していたとしたら、代りに僕は自分のオペラのうちの3篇を差し出してよいと思っているよ。
演奏編曲

K.540a アリア「私の安らぎは彼女にかかって」

Aria of Don Ottavio "Dalla sua pace la mia dipende"

編成:T, fl, ob*2, hr*2, fg*2, vn*2, va, vc, bs
[ 88年4月24日 ウィーン ] 「ドン・ジョヴァンニ」への追加アリア11番(ドン・オッターヴィオ)。 オペラのウィーン公演(5月7日)の際、オッターヴィオ役のモレラのために。


K.540b 二重唱「この小さな手に免じて」

Duet of Zerlina and Leporello "Per queste tue manine"

編成:S, Bs, fl*2, ob*2, cl*2, fg*2, vn*2, va*2, vc, bs
[ 88年4月28日 ウィーン ] 「ドン・ジョヴァンニ」追加二重唱(ツェルリーナとレポレロ)。5月7日の公演のために。


K.540c レチタティーヴォ「何というひどいことを」とアリア「あの恩知らずが私を裏切った」

Recitative and aria of Donna Elvira "In quali eccessi" and "Mi tradi quell'alma ingrata"

編成:S, fl, cl*2, fg*2, hr*2, vn*2, vc, bs
[ 88年4月30日 ウィーン ] 「ドン・ジョヴァンニ」へ追加。5月7日のウィーン公演で、ドンナ・エルヴィラ役のカヴァリエリのために。


K.588 オペラ「コシ・ファン・トゥッテ」 (女はみなこうしたもの)

Cosi fan tutte. Opera buffa in 2 acts
編成:fl*2, ob*2, cl*2, fg*2, hr*2, tp*2, timp, vn*2, va*2, vc, bs
[ 89年秋〜90年1月 ウィーン ] ダ・ポンテ詞。劇は2組の恋人たち、老哲学者ドン・アルフォンソ、小間使いデスピーナの6人で演じられる。 序曲はアンダンテとプレストから成り、アンダンテは第2幕で哲学者が「女はみんなこうしたもの」と語る旋律。 初演は1790年1月26日ブルク劇場。

参考

デント評

洗練された観客のためのオペラである。人工的な世界のオペラとしては最上のものであり、時の一致は、このオペラの魅力である劇の人工性をさらに高める働きをしている。
演奏編曲

K.620 ジングシュピール「魔笛」

Die Zauberfloete. German opera in 2 acts
編成:fl*2(picc), ob*2, cl*2, basset-hr*2, fg*2, hr*2, tp*2, tb*3, timp, vn*2, va*2, vc, cb, グロッケンシュピール
[ 91年3〜9月 ウィーン ] フリーメーソンの仲間で、劇団を主宰するシカネーダーの注文を受けて作られた。5月頃から作曲に取り組み、9月28日に完成。30日にシカネーダーの劇場で初演された。 自筆譜は12段からなる横長の五線譜で、序曲31頁、第1幕190頁、第2幕210頁と膨大なものだが、パミーナとパパゲーノの二重唱などほんの数頁にわたって書き直しがあるだけで、 あとはインクの染みをたらしながら一気に書き上げてあるという。

この「2幕のドイツ・オペラ」と記された劇にはメーソンの儀式や試練、あるいは象徴などか取り入れられている。序曲はアダージョの序奏とアレグロの主要部からなり、 冒頭の力強い3つの和音はオペラの中でも現れ、メーソンの信条を表しているという。会員は皆兄弟で、平等であり、互いに助け合うことを基本とするフリーメーソンに対する宮廷の弾圧は、 ヨーゼフ2世の後、レオポルト2世配下の秘密警察によりますます厳しくなり、モーツァルトの死後、このオペラは上演禁止になるだろうと噂されていた。 しかし予想に反して上演がふえ、1年後の11月3日には100回の上演があったという。メーソンとの関係について、ジャック・シャイエの詳細な研究がある。

1790年8月末、シカネーダーはベネディクト・シャックにメルヘン・オペラ(童話歌劇)「賢者の石 Stein der Weisen」あるいは「魅惑の島」の作曲を依頼した。 それにモーツァルトも手伝い、他にヨハン・バプティスト・ヘンネベルク、フランツ・クサヴァー・ゲルルも加わり、シカネーダーも含めて5人の合作となった。 モーツァルトは、喜劇的二重唱「いざ、いとしき乙女よ、共に行かん」K.592a (625)を作曲したらしい。 そのオペラは9月11日に初演された。
その楽譜をアメリカの音楽学者D.J.バックが1996年、ハンブルク図書館で発見した。 マーティン・パールマンは「魔笛」との関連に注目し、ボストン・バロックを指揮し、この「賢者の石」を1998年、世界初録音した。 そのCD(TELARC PHCT-5190/1)にはパールマンによる「魔笛」との比較解説が含まれている。

文献

CD

編曲

K.621 オペラ・セリア「ティトの仁慈」

La Clemenza di Tito (Titus). Opera seria in 2 atti
編成:fl*2, ob*2, basset-hr(第23曲で), cl*2, fg*2, hr*2, tp*2, timp, vn*2, va*2, vc, cb
[ 91年夏〜秋 ウィーン、プラハ ] メスタージォ・マッツォーラ詩。皇帝レオポルト2世のボヘミヤ王即位戴冠式のために。1791年9月6日皇帝皇妃の臨席のもとに、モーツァルトの指揮で上演された。 作曲の期間が短く(依頼を受けてから18日間で作った。プラハへ向う馬車の中でも書いていたという)、台本もあまり良くなく、 さらに作曲者自身の体が弱っていたため、必ずしも霊感豊かな作品にはならなかったといわれているが、この種の真面目な内容にはモーツァルトはあまり乗り気でなかったのが本当の理由ではなかろうか。 劇の内容は、ローマ皇帝ティトゥスが先王の娘や信頼していた部下に裏切られながらも、罪を悔いたこれらの人達を許してやる。 オペラを見た皇妃は、この音楽は「ドイツ人の汚物」だと言ったという。モーツァルト一行は9月半ばにウィーンに帰った。

1791年4月26日、プラハの王室国立劇場でドゥーシェク夫人は慈善演奏会を催し、ヴィテリアのロンド "Non piu di fiori"

を歌った。この曲にはバセット・ホルンの助奏があり、アントン・シュタドラーがこのとき演奏したらしい。
この曲はオペラの作曲に先立って(ドゥーシェク夫人の演奏会のために?)作られていた。
cf : ロビンズ・ランドン(海老沢訳)「モーツァルト、最後の年」 2001(pp.129-140 & pp.164-179)
      歌詞については、メタスタージョの原作と比較して pp.134-136 にある。

スタンダール評

優しい愛情のみが各人物を動かしている。友人に向い「君の罪を私に打ち明けたまえ。君といるのは親友だよ」と話しかけるティトゥスより優しいものがあろうか。 フィナーレでティトゥスが「友人になろう」という言葉は、冷酷無比の税収吏をさえ泣かせる。

演奏

ヴィテリアのロンド編曲
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