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K.Anh.88 クラリネット五重奏曲のための楽章 イ長調〔編成〕 cl, 2 vn, va, bs(vc)〔作曲〕 1789年9月~1790年 ウィーン |
速度表示なし、4分の4拍子、110小節の断片。 ケッヘル第6版(1964年)と新モーツァルト全集(エルンスト・シュミット、1958年)は89小節までで、そのあとの21小節(1990年頃、Götteweigベネディクト修道院で発見された)は知られていなかった。 主題は『コシ・ファン・トゥッテ』(K.588)第24番のフェランドのアリアとほぼ同じであり、両者の関係についてアインシュタインは、モーツァルトはクラリネット五重奏曲(K.581)のフィナーレとしてこの曲を書きはじめたものを破棄して、フェランドのアリアに使ったものと考え、その前後関係から「K.581a」という番号に位置づけていた。
はじめにモーツァルトは、『女はみんなこうしたもの』(K.588)のフェルランドのアリア(第24曲)をほとんど文字どおり先取している終楽章を書きはじめた(K.Anh.88)。 そのアリアは『そうだ! わたしはわかった、あのすばらしい美女がもうわたしの涙に抵抗できないことが』(Ah! io veggio, quell'anima bella -- al mio pianto resister non sà)というテクストを持つ、喜びの絶頂の歌である。 しかし、この発端の89小節はあまりにもコンチェルタントになってしまっており、モーツァルトには喜びの程度がすぎると思われたようである。 彼はこれを放棄してしまった。しかしタイソンの研究(1987年)により、逆に断片として残るこの曲の草稿は『コシ』の後、たぶん1790年に書かれたものと推定された。 また、作曲の目的はクラリネットの名手で親友のシュタドラーの私的な演奏のためであろうとされ、第51~69小節における頻繁な音符記号の変更はシュタドラーをからかうためのモーツァルト一流のユーモアと見られている。 このような成立年代の見直しによりケッヘル第3版の「K.581a」という番号は当然変ることになろう。 なお、この曲の補筆について[野口]によると[アインシュタイン] pp.271-272
〔演奏〕
CD [KKCC-4123-4] t=2'45 オランダ・ソロイスツ・アンサンブル 1992年 |
〔動画〕『コシ・ファン・トゥッテ』から第24曲、フェランドのアリア
[http://www.youtube.com/watch?v=1_fx2IIh2mA] t=4'21 Francisco Araiza (T), Sir Neville Marriner (cond), Academy of St. Martin in the Fields |
[http://www.youtube.com/watch?v=YahPE9ncK1g] t=4'51 Topi Lehtipuu (T) Salzburger Festspiele 2009 |
〔参考文献〕
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