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8つのピアノ変奏曲 ヘ長調 K.352 (374c)〔作曲〕 1781年6月 ウィーン |
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フランスの作曲家グレトリーのオペラ『サムニウム人の結婚 Les Marriages Samnites』から合唱曲「愛の神 Dieu d'amour」を主題に。 グレトリーの原曲は「行進曲のテンポで、4分の2拍子、ホ長調」というものだが、それを「2分の2拍子、ヘ長調」の変奏曲とした。 第5変奏はヘ短調。 ただしモーツァルトは最初5つの変奏曲(第1~第4と第6変奏)として書いたが、その後アルタリアから出版(1786年)するとき3つの変奏(第5、第7、第8)を加えて「8つの変奏曲」としたといわれている。
作曲の動機や時期ははっきりしない。 推測するところ以下のような可能性が考えられている。 モーツァルトがザルツブルクの束縛から逃れ、ウィーンで自立する直前のこと、次の手紙を書いている。
1781年6月13日、ウィーンからザルツブルクの父へここで変奏曲とあるのがこの曲かもしれないというのである。 その演奏会の直後、モーツァルトはアルコ伯爵の足蹴を尻に受けて大司教の下僕の身から解放されたのだった。 そして彼はウィーンでまずはピアノの教師として身を立てなければならなかった。 最初のピアノの弟子となったのはルムベック伯爵夫人(Countess Rumbeck, 1755-1812)であり、彼女のために
ぼくは大司教の当地での演奏会のため、ぼく自身のソナタ1曲と、ブルネッティとチェッカレッリのためのロンドーを1曲書き、それぞれの演奏会でぼくは二度ずつ演奏しました。 そしてしまいには曲がつきてしまったので、まる1時間たっぷり(その主題は大司教からもらって)なおも変奏曲を弾きました。[書簡全集 V] p.77
グレトリーとモーツァルトは一度出会ったことがあった。 それはモーツァルト一家が1763年から約3年半にわたる西方への大旅行から帰郷する途中の1766年8月下旬から9月上旬にかけてジュネーヴに3週間滞在したときのことであった。 そのときグレトリーはイタリア留学からの帰途にあった。 レオポルトは彼に「難しいソナタを作って欲しい。息子はそれを即興で弾いてみせる」と申し出た。 翌日グレトリーは変ホ長調の難しいアレグロを作って与えたところ、即座に演奏して一堂を驚かせたという。 しかも神童モーツァルトからして物足りない部分はどんどん即興で作り替えて演奏したことから、当のグレトリーは面白くなかったことだろう。 ましてグレトリーはイタリア留学を果し、希望に燃える25歳であったから、わずか10歳の少年の神業的即興を目前にして体面を保つのが精一杯であったろうと想像できる。
さらに余談であるが、のちにモーツァルトが母と二人でパリへ旅立ったとき、グレトリーはその地で押しも押されもしない著名な作曲家として活躍していた。 しかし父レオポルトは息子に「グレトリーと親しくなってはいけない」(1778年2月9日の手紙)と忠告している。 そして、それに対してモーツァルトが何も知らせないことから、グレトリーに会ったのかどうかだけでも知らせて欲しいと催促している。 お人好しで世間知らずの息子が彼に利用されるかもしれないことを心配したのだろうか。 それともグレトリーに認められて息子がパリに定住し、自分の手が届かない存在になってしまうことを恐れていたからだろうか。
〔演奏〕
CD [EMI TOCE-11558] t=6'03 ギーゼキング Walter Gieseking (p) 1953年4月、ロンドン |
CD [PHILIPS PHCP-3674] t=12'48 ヘブラー Ingrid Haebler (p) 1975年11月、アムステルダム、コンセルトヘボウ |
CD [SYMPHONIA SY-91703] t=15'40 アルヴィーニ Laura Alvini (fp) 1990年8月、ボローニャ ※1790年頃のウィーンのフォルテピアノで演奏 |
CD [TOCE-7514-16] t=13'30 バレンボイム Daniel Barenboim (p) 1991年3月 |
〔動画〕
André Ernest Modeste Grétry1741-1813 |
1741年2月8日リエージュに生まれる。
当地の教会で音楽を学び、1759年にイタリアに留学、そこで本格的な教育を受けたのち、1766年に帰国。
1767年からパリで活躍。
『ゼミールとアゾール Zémire et Azor』(1771年)、『獅子心王リチャード Richard Cœur de Lion』(1784年)などのオペラを残し、フランスにおける彼の確固たる地位は革命の嵐にも影響されず、名声は衰えなかった。
1813年9月24日ヴァルドワーズ県モンモランシーで没。
そこはかつて思想家ジャン・ジャック・ルソーが暮らしていた家だったという。
〔参考文献〕
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