Johann Georg Leopold Mozart1719年11月14日 - 1787年5月28日
右はピエトロ・アントニオ・ロレンツォーニ(Pietro Antonio Lorenzoni)作の「レオポルト・モーツァルトの肖像画」(1765年頃)
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レーオポルト・モーツァルトの人生の大部分は、なにはともあれ職務を果たし働く毎日であった。 そんな中で「楽しみ」だったのは、家庭内を取り仕切ること、機知に富んだ会話、「石弓」、それに彼自身が付き合うに相応しいと見なした家族との交際であった。
レーオポルトは2つの人生を歩んだ。ひとつは自分自身のものであり、そこでは自らの個性、偉大さ、そして存在意義をも高めることができた。 それに対してもうひとつは、息子が自らの人生を生きる権利を主張するという恐るべき瞬間を迎えるまで、彼が息子と共有した人生であった。[ヴァーレンティン]
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モーツァルトの父レオポルトは1719年11月14日アウクスブルクで、ヨハン・ゲオルク・モーツァルト(Johann Georg Mozart, 1679-1736)という製本師の長男として生まれた。 母アンナ・マリア・ズルツァー(Anna Maria Sulzer, 1696-1766)は、ヨハン・ゲオルクの先妻が1718年に世を去り、彼の後妻として9人の子宝に恵まれた。 レオポルトの生家は現在モーツァルト博物館となっている。
父親ヨハン・ゲオルクの祖先は15世紀までさかのぼってたどることができ、その頃はモッツハルト Motzhart という姓であった。 その子孫が17世紀にアウクスブルクに移住し、モーツァルト Mozart と名乗るようになり、代々建築師(石工)として続いた。 アウクスブルク一帯にはモーツァルト一族が建造した教会があちこちに残っているという。
母親アンナ・マリア・ズルツァーの祖先も5代くらい前までさかのぼることができ、代々織師であった。 このように、レオポルトの血には芸術的な素質が流れていたといえる。
7月19日アウクスブルクで、レオポルトの弟フランツ・アロイス(5男、Franz Alois 1727-1791)が誕生。 彼の娘マリア・アンナ・テークラ(Maria Anna Thekla 1758-1841)は愛称ベーズレ(従妹ちゃん)で呼ばれ、若いヴォルフガング・モーツァルトと仲が良かったことは有名。
8月4日、アウクスブルクの聖ザルヴァートル校を修了。
アウクスブルクからザルツブルクに出てきて、11月にベネディクト派の大学に入学。
9月、大学で哲学と法律を学ぶはずだったが、もともと好きだった音楽に熱中し、大学を除籍になった。 ザルツブルクの名門貴族トゥルン伯爵(Thurn-Valsassina und Taxis, Johann Baptist Graf, 1706-1762)の楽師として召し抱えられ、持ち前の勤勉さによって、音楽家として着実に地歩を固めてゆく。
作品
ザルツブルク宮廷楽団のヴァイオリン奏者に採用された。しかし無給。 整理された合理的教授法、的確な指摘、厳しさと粘り強さ、幅広く豊かな教養を併せ持っていたレオポルトは職人的音楽家というだけでなく、優れた教育者として成長する。
ようやく「クリスマス手当」の支給を受けた。また、少年合唱団の非常勤講師の職を得た。
11月21日、アンナ・マリア・ペルトゥル(27歳)と結婚。
長男ヨハン・ヨアヒム誕生。
長女マリア・アンナ誕生、死亡。長男ヨハン・ヨアヒム死亡。
次女マリア・アンナ誕生、死亡。
7月30か31日、三女ナンネル誕生。
作品
次男ヨハン・カール誕生。
作品
次男ヨハン・カール死亡。
四女マリア・フランチスカ誕生、死亡。
作品
1月、アウクスブルクの謝肉祭のために次の曲を作曲。
作品
1月27日、ヴォルフガングが誕生。
7月、「ヴァイオリン教程」をアウクスブルクで出版。
故郷アウクスブルクの音楽出版者ヨハン・ヤコブ・ロッターにより委託販売された。レオポルトとロッターの間に刊行のための往復書簡が交わされた。 このいわゆる「ロッター書簡」はヴォルフガングが誕生するまでの資料を提供する貴重なものになっているという。
「深い洞察力と優れた資質を見せ、例題もすばらしい。指づかいは本物だ」と絶賛され、すぐに売り切れるほどヴァイオリン演奏法の名著として有名となる。 そして各国語に翻訳された。
右はこの本にあるレオポルトの肖像画。ザルツブルクの画家ゴットフリート・アイヒラーが描き、ヤーコブ・アンドレアス・フリードリヒが銅板画にしたもの。
フランス語訳は1770年パリで出版される。後に息子ヴォルフガングが22歳の1778年、母と一緒にパリを訪れていた際、店頭でその訳本を見つけ、父に報告する。
そしてその1ヶ月後、母はこの世を去る。
ザルツブルク宮廷室内作曲家になる。
ザルツブルク宮廷楽団第2ヴァイオリン奏者になる。
作品
ナンネル(8歳)のために「楽譜帳」を編集。 姉の練習をそばで聴いていたヴォルフガング(3歳)は3度の和音を(教えてもらったわけでなく、自ら)弾いた。
作品
「ナンネルの楽譜帳」を使ってヴォルフガングへの教育が始まる。
1月12日、ナンネルとヴォルフガングを連れてミュンヘン旅行。
8月、「トランペット協奏曲 ニ長調」を作曲。
9月18日、一家でウィーン旅行。リンツなども訪れ、帰郷は翌年1月になる。
12月、プレスブルク(現ブラティスラヴァ)で旅行用馬車を買う。 計画性に優れたレオポルトは、各地で自分の子供たちの天才ぶりが絶賛されたので、もっと広く宣伝して廻るための準備をした。
作品
1月5日、ウィーン旅行から帰る。
2月28日、ザルツブルクの宮廷楽団の副楽長に就任。 それは、楽長エーベルリンの死去に伴い、副楽長ロリが昇任したことによるもの。 この後、レオポルトは死ぬまで副楽長の地位にあった。
6月9日、一家で西方への大旅行に出発。 もちろんプレスブルクで手に入れた馬車を使って。 ザルツブルクに戻るのは、約3年半後の1766年11月29日。
1月、ヴェルサイユでルイ15世に拝謁。
4月、海峡を越えて、イギリスに渡る。
重い病気にかかり、チェルシーで保養。
8月、イギリスをたち、大陸に戻る。
3月、ハーグで次の曲を作ったらしい。
作品
11月29日、一家はザルツブルクに帰る。
9月、一家で再びウィーン旅行。目的は皇女ヨゼファの婚儀の祭典に出席することだったが、ウィーンで天然痘がはやり、皇女は死去。
それを避けてウィーンを離れたが、ヴォルフガングとナンネルが相次いで天然痘にかかった。
1月、ウィーンに戻る。
9月、皇帝ヨーゼフ2世に拝謁。
1月5日、一家はザルツブルク帰郷。
6月、宮廷オルガン奏者アードルガッサーの結婚式があり、立会人となる。
9月、「ヴァイオリン教程」が評判で、再版される。
12月、ヴォルフガング(13歳)だけをつれてイタリア旅行。弟の才能の前では天才ピアニストの姉ナンネルも影が薄く、レオポルトはいよいよヴォルフガングのためにすべてを犠牲にするようになる。
作品
3月、イタリアの各地で息子ヴォルフガングへの絶賛を浴び、大満足の末、ザルツブルクに帰る。
8月13日、再びヴォルフガングだけをつれてイタリア旅行。
12月15日、帰郷。
12月16日、寛大だったザルツブルク大司教ジギスムント・フォン・シュラッテンバッハが死去。
3月14日、ヒエロニムス・コロレド伯がザルツブルクの新大司教に就任。
10月24日、ヴォルフガングだけをつれて3度目のイタリア旅行。
3月、イタリア旅行の目的(息子をどこかの貴族のもとに就職させること)が果たせないまま、ザルツブルクに帰る。
9月下旬、ヴォルフガングが生まれたゲトライデガッセ(家主ハーゲナウアー)からハンニバル広場にある大きな住居(以前の住人から「舞踏教師の家(タンツマイスターハウス)」と呼ばれていた)に引越した。
12月、ヴォルフガングをつれてミュンヘン旅行。目的は「偽りの女庭師」の初演。
1月、「偽りの女庭師」の初演のために、ザルツブルクから姉ナンネルがミュンヘン到着。
3月、二人の子供をつれてザルツブルクに帰る。
自他とも認める、世界最高の作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、ヨーロッパの片隅ザルツブルクで悶々としていた。
レオポルトは大司教コロレドの顔色をうかがいながら何とか状況を打破しようとするが進展しない。
時代を変えるには、やはり革命的な行動を取るしかなかった。
旧時代に属するレオポルトと新時代の方向に向おうとする息子ヴォルフガングとの間のミゾは深まっていく。
しかし、誰がレオポルトを責めることができようか。彼はこの時57歳(寿命が延びた現代と違う)の老人、息子は21歳の若者。
ここから先は、息子が自分の力で世界を切り開いていくのが当り前である。編者だけでなく、ここまで息子の成長を助けてくれた父レオポルトに感謝する人は多いと思う。
その一方で、この時25歳になる姉ナンネルは歴史から忘れ去られている。編者は深く同情する。
息子との旅行を考えて休暇願いを出すが、大司教は認めない。
8月、とうとう息子ヴォルフガングは辞職願いを出した。レオポルトは心身ともに疲れ、重いカタルにかかってしまう。
大司教からようやく旅行の許可をもらったが、自分は動けないため、妻アンナ・マリアがかわりに息子と旅立つ。
7月3日、最愛の妻アンナ・マリアがパリで客死。
この頃からレオポルトはテオバルト・マルシャンと親しく交友を深め、晩年には、唯一の友とするようになる。 そして、死の年まで、ミュンヘンに住むマルシャンを何度も訪ね、余生を楽しんでいた。 それは次第に閉鎖的になっていく老レオポルトの命の洗濯だった。
この頃、グランド型フォルテピアノを購入した。これはザルツブルクにおいては第1号だったらしい。 それはクローチェが描いた有名な絵(右)に見ることができる。
そのピアノは地元ザルツブルクのオルガン製作者エーゲダッハーによるものらしく、出来の悪さにレオポルトは購入したことを悔んだと思われる。
そのせいか、ナンネルが結婚するときに嫁入り道具として与えてしまったらしい。そして、ナンネルは調整に悩まされることになる。
1月、ミュンヘンでオペラ「クレタ王イドメネオ」の初演があるため、レオポルトはナンネルを連れてミュンヘンへ行った。 その地には友人マルシャンがいるので、楽しい旅だった。
ミュンヘンからの帰り、二人はヴォルフガングも連れてアウクスブルクまで旅行し、3月7日ヴォルフガングとはそこで別れ、ザルツブルクに戻った。
なお、このとき、マルシャンの息子ハインリヒもミュンヘンからザルツブルクまで一緒に行き、1784年までザルツブルクのレオポルトの家に住み込み、弟子となった。
2月頃、父レオポルトはミュンヘンのマルシャン家を訪問。ミュンヘンからの帰り、彼の娘マルガレーテ(当時14歳)を連れてザルツブルクに戻った。
8月4日、ヴォルフガングは(父の同意のないまま)ウィーンの聖シュテファン教会でコンスタンツェと結婚。
7月末、ヴォルフガングが妻コンスタンツェを伴ってザルツブルクを訪れた。
10月26日、聖ペテロ教会でヴォルフガングが自作のミサ曲(ハ短調 K.427)を指揮。 そして翌日、ウィーンへ帰った。
8月23日、娘ナンネルの結婚式がザンクト・ギルゲンで行われた。ザルツブルクの広い借家に帰宅したレオポルトは深い孤独を味わう。
1月28日、ザルツブルクをたち、29日、ミュンヘンのマルシャン宅に着く。
2月7日、レオポルトは友人マルシャンの息子ハインリヒと共にミュンヘンをたち、息子ヴォルフガングのいるウィーンへ向った。
そして、11日から4月25日まで滞在する。
なお、この間(レオポルトがザルツブルクを離れている間)ナンネルは夫と共にザルツブルクの父の家の留守番をしていた。
11日に着くとすぐ、市の集会所だったメールグルーベでの息子の予約演奏会を聴いた。それは大成功だった。
2月12日、ヴォルフガングはハイドンを招き、レオポルトも加わって「ハイドン四重奏曲」を演奏した。 このときハイドンはレオポルトに
私は誠実な人間として神に誓って申し上げますが、あなたの御子息は私が個人的に知っている、 あるいは名前だけ知っている作曲家の中で、最も偉大な人です。 御子息は趣味が良く、その上、作曲に関する知識を誰よりも豊富にお持ちです。と言った。この頃は息子の仕事がうまくいっていたので、父は満足だった。 そして「旅の寒さが体にこたえるようになった。暖かいものを着ている。ベッドで横になって特製のお茶を飲んでいる」ということも娘に伝えた。
2月21日、リューマチにかかり、コンスタンツェの妹ゾフィーの世話になる。
3月2日、同行のハインリヒの演奏会がブルク劇場であったが、収入には結びつかなかった。レオポルトは自分の弟子がウィーンで成功するように骨を折っていたが、あまりうまく行かなかった。
息子の勧めにより、レオポルトは4月4日にフリーメーソンに入会する。 早くも16日には異例なことに第2階級「職人位階」へ昇級した。
4月25日、レオポルトはようやくウィーンをたった。もっと早く帰りたかったが、メーソンの昇進の儀式があったり、さらに大雪のため足止めを食らっていた。 ウィーンを離れるとき、息子ヴォルフガングはコンスタンツェを連れてプルカースドルフまで一緒に行った。それが父子の最後の別れとなった。
5月4日、ミュンヘン着。それから1週間してザルツブルクに帰った。
6月、ザルツブルク地方はひどい大雨に見舞われ、その湿気のせいでレオポルトのフォルテピアノが膨張し、弦が何本も切れてしまった。
6月13日、ザンクト・ギルゲンへ行き、出産間近のナンネルをつれてザルツブルクに戻った。
7月27日、ナンネルは父の家でレオポルト・アロイス・パンタレオンを産んだ。
9月1日、ナンネルは赤子を父の手に委ね、夫の元へ帰った。 この後、レオポルトは孫を溺愛し、ナンネルには「(孫)レオポルトちゃんは元気です」で始まる手紙を送り、近況を伝えるようになる。 孤独なレオポルトにとって孫の面倒を見るのは生きがいであり、自分の手元においておきたかった。
3月3日、ハインリヒ・マルシャンと共にミュンヘン発。4日、ザルツブルク着。
5月12日、孫レオポルト(ナンネルの子供)を連れてミラベル庭園を散歩。
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この頃から病気がちとなり、父親思いの娘ナンネルの世話になっていたが、残されている手紙からは深刻な様子は見られない。 息子ヴォルフガングが父に送った4月4日付けの有名な手紙で「死の予感」を想像するだけである。 レオポルトは、息子には怒りを、娘には愛情と感謝を抱きつつ、「老人が若返ることはない」と語りながら平静な気持ちで運命に従っていた。 また、晩年には歴史と自然科学に興味を抱くようになっていたようである。
5月28日ザルツブルク、娘ナンネルと夫フォン・ゾンネンブルク、そしてブリンガー夫妻が見守る中、レオポルトはこの世を去った。
ヴォルフガングは父の死の床にかけつけず、また29日夜の埋葬にも立ち会わなかった。
レオポルトはザルツブルクの聖セバスティアン教会の墓地に眠り、妻と息子ヴォルフガングの墓はなく、娘ナンネルは別の所に眠っている。
そして皮肉なことに、その聖セバスティアン教会の墓地には、コンスタンツェの2番目の夫ゲオルク・ニッセン、コンスタンツェの姉アロイジア、妹ゾフィー、そしてコンスタンツェ自身が埋葬された。
右の写真の中央にある大きな墓は「コンスタンツェ・フォン・ニッセン」のもの。
その右下の小さな石版が父レオポルトの墓標。
レオポルト・モーツァルトが、究極的に、ウェーバー家の女性たちに囲まれて眠ることになったと知ったときの仰天ぶりは、想像するだに余りある。[ソロモン]
〔参考文献〕