日本の古典文学の中には観音さまの奇蹟的な力で救われた人々の話がたくさんでてきます。<観音>という言葉はサンスクリット語の<アヴァローキテーシュヴァラ>の漢訳語とされ、観自在、観世音菩薩とも訳されます。意味は、生きとし生けるものの願いや苦しみの声を聞き届け、苦しみを取り除き願をかなえてくれる存在、ということです。
古くより、救済する相手にもっとも適した姿をえらぶため33の姿に化身し、生きとし生けるものを救う、という信仰が広まりました。江戸時代には観音霊場33ヵ所巡りがさかんとなりましたが、これは、観音菩薩の33の化身にちなんだものです。特に、千手観音<千本の手とそこにある眼で多くのものを救う>と十一面観音<十一の顔は普門ーあらゆる方面に顔をむけるという意味をあらわす>はインド、チベット、中国などにおいて昔から広く信仰されてきました。
北の霊場北海道33観音は大正2年、徳島出身の山本ラクさんの観音ご尊像寄進により開創されました。徳島で3件の旅館を切り盛りしていたラクさんの順風満帆の日々に一人娘の突然の病死という不幸がおとづれます。ラクさん48歳、娘さん24歳のことでした。
この世のはかなさをしみじみと思い知らされ、天涯孤独となったラクさんは、その後も旅館経営を続けておりましたが、還暦を迎えると、娘の菩提を弔うため、得度し名を善真とあらためました。第二の人生を人のため、世のために尽くすことを決意し私財を投げうつ覚悟をしました。
そのころ、徳島各地から北海道へ移住したたくさんの人々の窮状、苦労を耳にしたラクさんはなんとか心のやすらぎを与えてあげたい、そのためにはほとけさまのお慈悲にふれるのが最適と考え、33観音霊場の設立をめざしました。私財をすべてそそぎみ、寄付もつのって、単身北海道へ渡ったのは明治44年67歳の時のことでした。北海道では多くの人の賛同、協力も得て、ラクさん自ら背中に観音像を背負って各お寺におさめました。ついに、大正2年、念願の北海道33観音は開創されました。ラクさん69歳のときのことです。
その後、さらに宗教活動を続けましたが、老いた身に北海道の冬の寒さはきつく、大正13年80歳の時、生まれ故郷にかえります。無一文となったラクさんを山本家の菩提寺の住職は温かくむかえました。大正15年1月17日、ラクさんはここで82才の生涯をとじました。
<マップおよび文章は33観音霊場会事務局発行の資料より引用>