第四章 釧路地方裁判所での公判
被告人の意見
私は、昭和五一年三月に普通運転免許を取得しました。昭和五一年四月、釧路に移住し、それから、釧路にいるときは、殆ど、毎日、車を運転しています。当時の道路状況ですが、相当多く、砂利道がありました。砂利道を速度六〇キロで走ることは、当時の私の運転技術では無理でした。道路の乾燥状態によって相当異なりますが、砂利によってタイヤが横滑りするようなことがあります。そのため、砂利道を安定感のある走行をするためには、速度は五〇キロまでという感じでした。
そのころも、最高速度は、六〇キロ制限でした。
砂利道で、一定の交通量がありますと、対向車両との交差時には、もうもうと砂煙があがり、視界が遮られます。勿論、追い越しをかけられたりすると、全く視界がきかない位の砂煙となります。厚岸のほうのヒチリップ、モチリップという海岸線の道路がありますが、ここは、いわゆる「ソロバン道路」で、時速四〇キロ位でも、車が横滑りをするような感じで、非常に気持ち悪かったことを、昨日のことのように思い出します。そこも、当時、制限速度は六〇キロだったと思います。その道路を走り慣れた人は、四〇キロに満たない速度で走っている私の車をスイスイと追い越していき
ました。
その当時からすれば、道東地域の道路の舗装率は、非常に高くなり、幹線道路はもちろんのこと、やまあいの道でも舗装されている状況となっています。
砂利道と、舗装されて走りやすい道路とが、同じ制限速度ということに疑問をもつのは、私だけではないと思います。
車の運転というのは、極めて微妙なものです。私の場合、運転しはじめた段階では、それほどのスピードは出しません。というより、出せません。多分、体が慣れていないからだと思います。従って、三〇分以上運転を継続すると、だんだんとスピードが出るようになります。勿論、交通量の多い市内では、その交通量に応じた速度で運転します。市内の交通量の多いところは、殆どが、四〇キロ制限ですが、その四〇キロの速度でも運転できない、運転しない場合も多くあります。しかし、私が四〇キロ以内で走行している時にも、五〇キロを遙に越えるような速度で走行する車両があることも事実です。
従って、長距離運転をしている場合に、その長距離運転の間、ずっと同じ速度で運転せよということは、体の順応からしても困難を強いるものであると思います。
多数の車両が走行している道路で、「車両の走行の流れを無視して、自分の車両のみ制限速度を守ることが決して安全ではなく、むしろ危険でさえあることは、今や車両を運転するものの常識である、制限速度にしがみついているドライバーほど交通の流れを乱す原因となっているとの指摘もあります。
これは、交通量の多い道路でもことですが、私が、運転していた道路は、私の記憶では、当時、私の視界には全く車両はなかったと記憶しています。美幌峠の駐車場で休憩してから、全く、他の車を追い越した記憶はありませんし、対向車両があったという記憶もありません。空は、あくまでも青く、見事に晴れ渡った全く気持ちのいい日でした。
このような道路環境において、自己の安全走行の範囲内で走行することが処罰の対象となることには、疑問をもたざるをえません。
昭和五一年当時と、車両の性能も格段に進歩しています。
しかし、世の中の進歩の中では、次々と新しい問題も発生します。
私は、最近、二つの報道に接しました。一つは、テレビで放送された運転中電話に対する諸外国の対応についてです。細かい数字は、メモをとっておりませんのでわかりませんが、運転中電話による交通事故の発生を防止するために、運転中電話に対する規制がどのように行われているかというものでした。記憶に鮮明なのは、イギリスの場合は、運転中電話に対する規制が非常に厳しく、確か、四八万円というふうになっていたと思います。その他の国の場合も、一定の金額の支払が必要となっていました。勿論、この金額が、罰金なのか、反則金的な正確なのかは、覚えておりません。しかし、運転中電話が、非常に危険であり、交通事故発生の要因とするとする立場から、運転中電話に対して一定の規制をしているというものでした。
その規制の内容が、刑事罰なのか、行政罰なのかの細かいことは覚えておりません。
それと、もう一つは、「運転中電話の研究を急げ」との意見でした。
自動車に電話を設置することは、必要性があると思います。しかし、運転しながら、電話で対話をするということが、極めて、危険であるということは、誰の目にも明らかだと思います。私は、本件で検挙されたとき、音楽を聞きながら運転していました。自動車の運転をしながら音楽を聞くということと、電話で他人と対話をするということとの違いは明かです。電話で対話をしている間の運転が極めて危険であることは常識だと思います。現実にも、運転中電話が原因とされる交通事故が発生していることも報道されています。
このような危険な走行を規制し、交通事故の発生を抑止することこそ、交通行政に求められることだと思います。その意味で、私は、自動車に電話を設置し、運転をしていない同乗者が通話することができるようにするということと、運転中にも対話ができるようなことを許すということとは全く異なると思います。
私は、簡易裁判所における審理の冒頭でも意見を述べさせていただきました。
私は、今後も、仕事柄、二〜三時間の長距離運転を継続して行わねばならない状況にあります。その都度、速度違反を侵さねばならない状態で一生を終えることは、自分に課せられた社会的責任を放棄したものだと思います。交通行政は、非常に多くの国民がかかわる問題であります。それは、車の運転にかかわるものすべてが、納得の行くものでなければならないと考えます。
科学的で、合理的で、納得の行く交通行政が行われなければ、交通事故を減少させることはできないでしょうし、運転者が、真に「責任」を自覚して運転することはできないと思います。
私の事件についての審理が、真に、日本の交通行政の夜明けとなることを念願しております。
弁護人の意見
本事件に関する弁護人の意見は、釧路簡易裁判所における第一回公判期日に陳述したとおりであるが、本事件の地方裁判所移送後第一回公判期日にあたり、以下のとおりあらためて意見を述べる。一、道路交通法二二条一項は、同法第一条いう道路における危険の防止すなわち交通の安全の確保を、車両の運転速度(走行速度)を規制することにより実現することを目的とする法条である。したがって、車両運転者が、法令の定める速度を超過して走行しさえすれば、直ちに二二条一項違反に問われるべきものではない。速度違反の認定は、機械的、形式的に行なうのではなく、交通の安全に対する危険の創出の有無ないし程度を考察した上で、検事や処罰の要否を判定するものでなければならない。
二、本件控訴事実記載の道路部分を、検挙時の交通状況下において、嫌疑の速度で車両運転をしたこと自体を争うが、仮にその程度の速度で車両を運転しても、道路交通に危険をもたらすことはない。
三、本事案の捜査にあたった警察官は、被告人に対し、一九九五年一〇月一三日午後三時四五分ころにおける網走郡美幌町古梅一四・四キロポスト付近道路の道路交通状況下で、該道路部分を九七キロメートル毎時程度で走行することが交通の安全を害する所以をついに説明しえなかった。
四、本事案の捜査にあたった検察官も、被告人に対し、一九九五年一〇月一三日午後三時四五分ころにおける網走郡美幌町古梅一四・四キロポスト付近道路の道路交通状況下で、該道路部分を九七キロメートル毎時程度で走行することが交通の安全を害する所以をついに説明しえなかった。本件起訴は、起訴裁量権を逸脱し、また検挙や処罰の必要を争う被告人に対する報復として行なわれたものである。
五、被告人が主張している運転速度と道路交通の危険に関する見解は、車両運転の経験を持つ者の多くが考えているごく当然のことである。速度違反といっても一〇キロメートル毎時程度の超過までは見逃す慣行の存在、一方で県警交通部長が速度違反で検挙されたり、速度違反の取締りのあり方を警視総監や検事総長が批判したりする現実は、速度違反取締りの現場に無視しえない矛盾や不合理がひそんでいることを如実に示している。
六、現実と乖離した法の運用が行なわれ、裁判所の判断が健全な市民感覚や科学的法則と遊離するときに、法は危殆に瀕する。本件は、道路交通法の運用における問題を指摘し、その矛盾を告発する役割を法律家が買って出たものである。率先して法を遵守し、市民に範を垂るべきともいえる弁護士が、敢えて問題を告発したことの重みに思いを致されるよう切望する。
七、あらためて弁護人の主張を整理する。
第一に、本件公訴は、刑事訴訟法二四八条に違反して提起されたものであるので棄却すべきである。
第二に、仮に、公訴提起が有効だとしても、
・ 公訴事実の運転速度の証明はなく、
・ また仮に被告人車の運転速度が公訴事実のとおりだとしても、その程度の走行速度は本件道路部分付近の交通の安全を害さないので、いずれにせよ本件公訴事実につき被告人は無罪である。
八、弁護人は、裁判所が勇断をもって本件の審理にあたられることを衷心より希望する。
取締り担当警察官の証言で明らかになったこと
1.一〇月という時期は、「観光シーズンも徐々に下火となり、最盛期には、毎分七〜八台と多いが、当時は、毎分一〜二分程度だった」。2.この日の設定速度は、「七七キロ」であった。
七七キロに設定した理由は、「一般車両の運転手の方をよく見ていれば二割増しぐらいで走ってきますので六〇キロぴったりで取締りはしておりません。少し余裕をもって七七キロということで取締りをしている」。
六〇キロ超えて全員違反を検挙したら、私(警察官)自身の考えでは、みんな出していると思いますから。
七七キロに設定するのは、冬期間も同じである。
3.平成七年の交通事故の発生状況
取締り現場の古梅地区は、人身事故の発生はなく、物損事故八件発生。内三件は動物、鹿などの飛び出しによる事故である。
峠から美幌町は、約二六キロあるが、その間は、人身事故八件、傷者九名、物損事故は三六件発生している。
4.ホールドスイッチの切替えは自動ではなく、手動にしている。
予め自動にしておくと、設定された速度以上のものを全部把握してしまう。
車が連続して走行している場合には、識別ができなくなるので、検挙を断念する。
5.地元の人は、ここでパトカーが測定をしている可能性があることを知っているので、地元の車はなかなか捕捉されない、地元から離れた地区の車が捕らまるという傾向がある。
松宮孝明立命館大学法学部教授の証言により明らかになったこと
■ドイツの道路交通法の速度に関するさだめ。・ 自動車運転者は自己の車両を常に支配できるような速度でのみ運転してよい。運転者は、その速度を、とりわけ道路、交通、視界、天候の状況および自己の個人的な能力ならびに車両及び積荷の性質に適応させなければならない。霧、降雪または降雨のために視界が五〇メートルに満たないときには、運転者は、より遅く速度が指定されていない限りで、時速五〇キロメートルを超えて走行してはならない。運転者は、視認可能な距離以下で停止できる速度でのみ、運転してよい。しかしながら、対向車両が危険にさらされるおそれのあるほど狭い車線では、運転者は視認可能な距離の半
分で停止できる速度で運転しなければならない。
・ 自動車は、合理的な理由もないのに、交通の流れを妨げるような低速で走行してはならない。(2a) 車両の運転者は、子供、扶助を要する人々及び老人に対して、とりわけ速度を抑えブレーキをいつでもかけられるようにして、これらの交通関与者が危険にさらされることのないように行動しなければならない。
・ 許される最高速度は、諸条件が最も有利な場合でも、以下の速度とする。
・ 集落地内では、あらゆる自動車について、時速五〇キロメートル
・ 集落地外では、
a)許容総重量が二・八トンを超えて七・五トン以下の付随車付きトラック並びにバス( 荷物用付随車付きのものを含む)については、時速八〇キロメートル
b)許容総重量七・五トンを超える自動車、すべての付随車付き自動車(但し乗用車及び許容総重量二・八トン以下のトラックを除く)並びに満席の乗客を乗せたバスについては、時速六〇キロメートル
c)乗用車及び総重量二・八トン以下のその他の自動車については、時速一〇〇キロメートル
この速度制限は、アウトバーン(標識第三三〇号)及び同一方向の車線が中央分離帯ないしその他の構造物によって区分されているその他の道路には適用されない。さらに、この速度制限は、各方向について車線区分線(表示第二九五号)ないし破線(表示第三四〇号)によってマークされた少なくとも二つの車線をもつ道路にも適用されない。
・ 許容最高速度は、タイヤチェーンを着装している自動車については、最も有利な条件のときでも、時速五〇キロメートルである。
あなたは、知っていますか?
■伊藤栄樹最高検察庁検事総長のエッセイ「交通事件の取扱い」(昭和六一年第一二八九号「時の法令」より)
この夏休み、家内と一緒に北海道は稚内でレンタカーを借りて、ドライブを楽しんだ。(中略)制限速度は、市街地や集落の周辺で四〇キロ・毎時となるほかは、おおむね法定の五〇キロ・毎時である。ところが、およそ制限速度以下で走っている車は全くない。警察のパトカーも例外でない。かく申す私もまた、制限速度を守れなかった一人であると白状しなければならない。七〇キロから八〇キロで走っていると、前後はるかに他の車影を認めることができるが、六〇キロで走る車があると、たちまちそれを頭に数珠つなぎができ、反対車線へはみ出しての追越しが始まる。そこが、追越し禁止区間であっても同様である。後続車を対向車との衝突の危険から守るためには、制限速度を無視してスピードをあげるほかはなさそうである。車道と歩道の分離をはじめとする道路環境の整備、それに自動車の性能の向上などを考え合わせると、制限速度などは、状況に応じてもう少しきめ細かく定めてもよいのではあるまいかと感じさせられた次第。(中略)
■秦野章元警視総監(「何が権力か」講談社発行・八四頁以下)
「ネズミ捕りの発想はナンセンス」
私も交通警察に捕まったことがある。場所は高速道路から新宿へ坂を降りたところだ。この地点はどうしてもスピード違反になるのだが、ちょうど降りきった所で覆面パトカーが待っていて捕まったのだ。私は怒った。「こんなアホなこと」と。(中略)
それにネズミ捕りは、捕まえやすいからやっているのであって、交通事故の防止とはあまり関係ない。「この場所は一番飛ばしてくるから、ここに網を張って捕まえてやる」というだけで、必ずしも事故を減らすというのではない。
なぜネズミ捕りが復活したか。件数稼ぎに最適だからだ。来た車は全部ひっかかる。では、全部を捕まえるかというとそんなことはできない。捕まえたのを調べている間に、他の車はどんどん走り去るから、運の悪い者だけが件数稼ぎの餌食にされる。これはナンセンスだ。ある意味では権力の乱用である。
交通取締りはなんのためにやるか。それは、事故を減らすためだが、取締りの前提としては、「事故はスピード違反によって起こる」という抽象論がある。スピード違反一般が交通事故の原因だというわけだ。それならスピード違反を一件でも多く捕まえればよい、というわけで現場では、「じゃ、どこか稼ぎやすいところをめっけるか」となる。
しかし、本当はスピード違反一般が即交通事故の原因ではない。あのスピード違反、このスピード違反が、なるべくして事故の原因となるのであり、そういう違反者は、捕まった時、なぜ自分が捕まったかを納得するものだ。
よく批判される件数主義は、やはり問題だ。件数主義で法律を厳密に適用して逮捕を続ければ、権力はますます嫌われ、結局、自分で自分の首を締めることになる。
■亀山継夫前橋地方検察庁検事正「車社会の刑事政策」
(平成元年「罪と罰」日本刑事政策研究会発行)
(前略)北海道の広々とした大地で車を走らせていると、自動車という偉大な発明が人間に与えてくれた快適さと利便をしみじみと感じることができます。(中略)車は、交通事故などの表面的な問題だけでなく、社会の奥深いところに深刻な影響を及ぼしているようです。問題が深刻かつ広範囲な割には、刑事政策の分野においても交通問題が取り上げられることはそれほど多くないようです。交通事犯が犯罪それ自体としては過失犯であり、あるいは行政罰則違反にすぎないからでしょうか。しかし、交通問題が社会の深層に影響を与えているのと同様、交通事犯問題は、刑事司法の基盤部に深刻な影響を及ぼしているように思われます。
刑事司法の関係者という立場を離れ、1ドライバーの目から眺めると、現在の交通事犯に対する公的対応には、常識的にみて納得しがたい点が目につきすぎます。
その最たるものが交通取締でしょう。なんでこんな見通しのいい空いたところでスピード取締をやらなくっちゃいけないんだ、もっと危険な場所、危険な状況でめちゃなスピードをだしている奴がたくさんいるじゃないか(そういうところじゃなきゃネズミとりは仕掛けられないんだよ)。高速道路でネズミとりなんて論外だよ、そんなことする暇があるんなら車間距離0メートルで突っ走るトラックを取り締まったらどうだ、渋滞になるとすぐ路側帯を走り出す奴らもどうにかしてほしいね(そりゃわかるけれどどうやってやるんだね)。こんな交通閑散なところでちょっと駐車しただけなのにキップを切られちゃったよ、渋滞の元になっている盛り場の駐車違反をなぜ取り締まらないんだ(浜の真砂と駐車違反はねー)。等々といった具合です。これらの不満に共通するのは、捕まったのは運が悪かった、もっと悪い奴らがいるのに見逃されている。正直者が馬鹿をみるなどといったところでしょう。警察によって行われている交通取締は、多大の手間と費用を要するものですが、その割りには違反の抑止効果があがらず、かえって違反者、その大部分は車を運転していないときは善良な一市民の警察に対する不信感、反感を醸成する元となっているようです。このようなことが年間百万回となく繰り返されるのですから、刑事警察に対する非協力という風潮を助長し、刑事司法の基盤である遵法精神を蝕む底流とならない方が不思議なくらいです。
一方、刑事司法の要を自任する検察は、激増する交通事犯に対処するため、厳罰主義をとりました。しかし、年間数百万件にのぼるこの種事犯をすべて公判請求することはおよそできない相談ですから、実務の流れは、ほぼ必然的に、起訴猶予(これが検察の機能の最大の特徴なのですが)をほとんど使わない一律起訴、略式手続による簡易迅速な流れ作業的処理、小額の罰金といういわば「簡易迅速必罰主義」が大勢となったのです。その結果はどうでしょうか。起訴猶予裁量を許さない必罰主義の方は、相手の過失の方がおおきいのにとか、誠意を尽くして示談をしたのにまったく評価してくれない等々の不満を内攻させ、簡易迅速小額罰金の方は、罰金は車を運転するための手数料みたいなものだよとか、この程度の金を払わせられるのにこんなに手間をかけさせられてはあわないよなどというおよそ理不尽な不満まで出てくる始末で、交通事犯の抑止に役立っているとはお世辞にもいえず、その一方で、検察の処理に対する不満、不信、罰金の軽視、裁判の権威の失墜を招く結果となっています。
交通事犯対策の主要な柱というべき交通取締と刑罰がどちらもさしたる効果をあげていないばかりか、刑事司法の基盤を掘り崩すような逆効果を生んでいるのだとしたら、刑事政策にとっては大問題ではないでしょうか。(中略)
車の運転は社会生活上当然の、かつ、有用不可欠の行為という視点にたてば、交通取締も、犯罪検挙を主眼とするのではなく、交通の流れをスムースにするための規制、指導という本来の姿を取戻し、すべてのドライバーの支持を得るだけでなく、そのような取締に違反する悪質ドライバーは社会の悪者として厳しく指弾されるでしょう。(後略)
■井嶋一友法務省刑事局長(現最高裁判所判事)
「道路交通秩序と刑罰」(平成三年七月「罪と罰」日本刑事政策学会発行)
(前略)刑罰を科すからには、その行為について刑罰を科する相当性がなければならないからである。この関係では、後にも触れるとおり、種々の点からの検討が必要となるが、基本的に重要なことは、刑罰は本来社会的・倫理的非難に値する行為について科されるものであって、刑罰を科すべき行為は、それを犯したことを理由に人に犯罪者として前科の烙印を押すのも最もだといえるものでなければならないということである。(中略)
国民の多数において反則行為たる違反が実はすべて刑罰の対象であるということが意識されていないとしても不思議ではない。しかりとすれば、このようなものをなおも刑罰の対象としておくことは、刑罰全体の感銘力に悪影響を及ばし、ひいては刑事司法の権威を失わせることにもなりかねないのではなかろうか。・反則金不納付事件は、他の事件に比して一般に起訴率が極めて高いといわれる。そもそも検察官の訴追裁量権の行使にあたっては犯罪の軽重が重要な判断要素となるところ、もし交通反則通告制度との関連といったことを度外視して反則行為たる違反を眺めたとすれば、その行為の犯罪としての(すなわち社会的・倫理的非難に値する行為としての)軽さ故に、起訴すべきものと判断される場合は極めて少ないのではなかろうか。にもかかわらず、高い起訴率となっているということは、反則金不納付事件の処理が刑事事件の処理としては特殊なものとなっており、いわば反則金徴収確保のための手段となっているということを意味することにならないだろうか。(中略)
道路交通法違反に対する真に時代に即応した制裁の在り方について、立法論を含め、関係各方面における活発な論議を期待する次第である。
速度違反の常態化と制裁の感銘力の低下
当該道路・気象条件・車両性能・運転者の能力からみて、制限速度が大幅に合理性を喪失している。つまり「その速度以下で走行することは一般的な運転者からみても不合理な苦痛でしかない」からその速度制限は守られない。速度制限の考え方は、「天候・道路状況・車両の性能・運転者の常態に見合った適正速度」での規制がされなければならない。(ドイツ道路交通法の考え方)
不合理な有罪判決回避の方法
裁判の「打切り」をめぐる議論について、ドイツ・アメリカの実情、日本の最高裁判決でも、「公訴権濫用にならないケースでも公訴棄却で手続を打ち切る余地を示した判決が存在すること、さらに、意思疎通能力を欠く身体障害者について「打切り」の可能性を示唆した最高裁決定の補足意見がある。本件について、「裁判所が不合理な速度規制に加担せずに法の権威を守るために、有罪回避のための手続の『打切り』が求められるケースと解する余地が十分にある。