道路交通秩序と刑罰
井嶋一友
道路交通秩序に関わる刑罰の二つの大きな柱は、刑法211条の業務上過失致死傷罪と道路交通法違反の罪といえよう。前者は、自動車等(原付を含む趣旨)の運転者の過失により交通事故が発生して、人の死傷という結果が生じた場合に、後者は、例えば、速度違反や駐車違反のように、運転者が道路交通法の定める規制に違反した場合にそれぞれ適用される。ところで、これらの事犯に対する刑罰の関与の在り方について刑事局内で日ごろ議論しているところを整理して述べることとしたい。
その前に、これらの事犯をめぐる現下の情勢に触れておくと、まず、「くるま社会」「国民皆免許時代」といわれる状況が一段と進行している点が注目される。平成2年の統計でみると、運転免許保有者数は逐年増加の一途をたどり、6,000万人を超え、16歳以上の免許適齢人口に対する比率は実に62%にも上り、また、自動車等の保有台数も7,800万台を超え、走行キロ数も著しい伸びを示している。他方、交通事故件数についてみると、昭和45年をピークに逐年減少していたものが、昭和53年以降増加に転じ、ほぼ逐年増加してピーク時の水準に達する勢いにあり、特に交通事故死亡者数は、昭和51年以降12年間1万人を下回り、昭和45年のピーク時の5割台で推移していたものが、昭和63年には1万人を突破してピーク時の6割台に突入し、その後も増加しているなど交通事故をめぐる情勢は必ずしも平穏とはいえない。
ところで、このような現下の交通事故情勢の関連して、交通関係事犯については引き続き刑罰をもって厳しく臨むべきであるとの意見が出てくるかも知れない。確かに刑罰は社会統制の手段として有用なものではあるが、だからといって、どのようなものに対しても刑罰を科することとしておけば事足れりとするわけにはいかない。刑罰を科するからには、その行為について刑罰を科する相当性がなければならないからである。この関係では、後にも触れるとおり、種々の点からの検討が必要となるが、基本的に重要なことは、刑罰は本来社会的・倫理的非難に値する行為について科されるものであって、刑罰を科すべき行為は、それを犯したことを理由に人に犯罪者として前科のらく印を押すのももっともだといえるものでなければならないということである。それに、科される刑罰の中身にも注目する必要がある。どの程度の刑罰を科するかについては、長年の実務の蓄積によって形成されてきた水準といったものがある。実際に生起する交通関係事犯は、その多くが犯罪としては比較的軽微なものであることもあって、そこで科される刑罰も軽いものが多いが、後にも触れるとおり、軽い刑罰を科すことの意味についても十分考察する必要がある。結局、交通関係事犯につき刑罰がどのような形で関与すべきかについては、以上のような観点からの種々の検討が必要なのであり、交通事故をめぐる情勢に厳しいものがあるからといって、直ちに刑罰の多用を図るべきだといった論議は短絡的にすぎる。
そこでまず、自動車等による業務上過失致死傷事件についてみると、その処理につき近時極めて大きな変化がみられる。すなわち、長年70%前後で推移していた起訴率(起訴処分に付した人数をこの数と不起訴処分に付した人数とを合算した数で割って算出した率)が、昭和62年以降逐年減少し、平成2年には31%にまで減少している。これは、検察において、傷害の程度の軽い軽微な事案は原則として不起訴とするとの方針転換が始められ(その間の事情については、本誌100号の17頁以下に説明があるので参照されたい。)、当初起訴率の地域間格差が指摘されたりもしたが、現在では、他高検管内でも同様の方針が採られるに至ったためか、これもほぼ解消している。
ところで、この方針転換は、次のような点を考慮して実施されたものと理解されている。すなわち、(1)この種事案は、一般市民が日常生活を営む上で容易に犯し得るものであるが故に、「くるま社会」「国民皆免許時代」にあって軽微なものについてまでその多くを起訴するときは、国民の多数に前科のらく印を押すことともなりかねず、刑罰の在り方として問題がある、(2)保険の普及により、治療費のみならず車の修理費も保険でカバーされることが多くなっているところ、傷害の程度の軽微な事案にあっては、被害者も損害が填補されれば必ずしも加害者の処罰を望まないことが多い、(3)この種事案のうち軽微なものは、起訴するとしても、略式手続により少額の罰金刑に処することとなるところ、従来その多くを起訴していたことから、検察庁があたかも少額罰金の徴収機関のような観を呈するに至った、(4)このような転換により、従来軽微な事件に充てられていた労力を真に対処すべき重大悪質な犯罪に振り向けることが可能になる、といった点である。自動車等による業務上過失傷害事件の処理の在り方につき、先に述べた観点からの検討を行った結果採られた方針とも評することができるもので、誠に妥当なものと考えている。この方針転換後既に相当の期間が経過しているが、被害者から不満が出たということはないようである。この方針転換の趣旨が正しく国民に理解され、この新たな方針が社会に定着することを希求する次第である。
次に、道路交通法違反の罪についてみることとする。道路交通法は、自動車等の運転に関して様々な規制を設け、その違反については刑罰をもって臨んでいるが、他方、そのうち無免許や酒酔いといった悪質危険な違反を犯したものを反則行為とし、これを行った者を原則として反則者として、交通反則通告制度を適用することとしている。すなわち、反則行為たる違反は、刑罰の対象であっても、原則として直ちには刑事事件とならず、反則金を納付しない場合にはじめて刑事事件になるわけである。ところで、反則行為たる違反と刑罰との関わりについては、先に述べた観点からすると、検討が必要な問題点が極めて多い。すなわち、(1)そもそも反則行為とされている違反の中には、これを犯罪と評価して刑罰の対象としておくことが妥当か否か、再検討を要すると思われるものが少なくない。例えば、超過速度の余り大幅でない速度違反、軽微な通行方法違反、駐車違反、いわゆる初心者マーク表示義務違反、あるいは免許証不携帯といった違反はどうであろうか。果たしてそれにつき違反者を前科者扱いするのももっともだといえるようなものであろうか。(2)それに、反則行為たる違反の多くは、一般市民が日常生活を営む上で容易に犯し得るようなものといえよう。とすると、「くるま社会」「国民皆免許時代」にあってこのようなものを刑罰の対象としておくことは、社会における刑罰の在り方として相当であろうか。(3)反則金の納付率は、制度発足以来95%から97%の高水準にあり、反則行為たる違反につき手続が開始されても、そのほとんどが刑事事件とならずに終わっているというのが実情である。このような状況にあっては、国民の多数において反則行為たる違反が実はすべて刑罰の対象であるということが意識されていないとしても不思議ではない。しかりとすれば、このようなものをなおも刑罰の対象としておくことは、刑罰全体の感銘力に悪影響を及ぼし、ひいては刑事司法の権威を失わせることもなりかねないのではなかろうか。(4)反則金不納付事件は、他の事件に比して一般に起訴率が極めて高いといわれる。そもそも検察官の訴追裁量権の行使に当たっては犯罪の軽重が重要な判断要素となるところ、もしょ交通反則通告制度と関連ちいったことを度外視して反則行為たる違反を眺めたとすれば、その行為の犯罪としての(すなわち、社会的・倫理的非難に値する行為としての)軽さ故に、起訴すべきものと判断される場合は極めて少ないのではなかろうか。にもかかわらず高い起訴率となっているということは、反則金不納付事件の処理が刑事事件の処理としては特殊なものとなっており、いわば反則金徴収確保のための手段となっているということを意味することにならないであろうか。(5)反則金不納付事件の求刑・科刑額は、違反行為に係る反則金額と同額との運用が行われているところ、反則金額は最高でも2万5千円、最低は3千円にすぎないから、同事件の求刑・科刑額は極めて低い。このようなごく少額の刑を科することは、財産刑の刑罰としての在り方、特にその感銘力の回復という見地から極めて問題ではないか。(6)このようなごく少額の財産刑を科すことが違反の抑止に実際上どれほどの効果があるのか。運転者にとっては、むしろ免許についての行政処分の行方に大きな関心があるはずであり、この面での制裁を強化する方が違反の抑止に効果があるのではないか。
もちろん、以上の問題点を完全に解消するには立法措置が必要となる。反則行為たる違反も現に刑罰の対象とされている以上、これにつき刑罰権の発動を全く見合わせるというわけにもいかないであろうし、交通反則通告制度というものが現に在する以上、これとの関連を全く無視して純粋に刑事事件としてのみ処理を考えるというわけにもいくまい。しかしながら、以上の問題点を放置したまま、現在の制度運用を今後とも維持すべきか否かについては、考え直すべき時期に来ているのではないだろうか。警察庁においても、駐車違反対策という限定された視点からではあるが、最近、駐車違反車の所有者責任を行政罰化して問う方策を打ち出し、違法駐車の排除に絶対に必要なものとの認識を示すに至っている。道路交通法違反に対する真に時代に即応した制裁の在り方について、立法論を含め、関係各方面における活発な論議を期待する次第である。
(法務省刑事局長)
出典:罪と罰 平成3年7月 第28巻4号 より
出典:罪と罰 平成3年7月 第28巻4号 より