日本人は騙されやすい国民か?

 消費者被害が議論されるとき、日本人は、騙されやすい人間だとか、断ることができず、安易に印鑑を押すなどと言われる。そして、騙した方も悪いが、騙された方も悪いなどということが言われる。このような意見に対して、どう答えれば良いのだろうか。

 消費者問題研究の草分け的な学者である「正田彬」先生は、「消費者行政の理念 消費者の権利という考え方」で、次のような意見を述べられている(神奈川大学法学研究所「研究年俸17」)。

消費者と事業者の間の取引というのは事業者間の取引とは違うのではないか。
 事業者の側では、組織体の行動ですから、合理的、組織的、計画的に行われる。そのためには当然のこととして、商品についての認識は十分に持っているし、またその販売方法も全て人為的な形で行われることになります。事業活動をしている場に現れてくる従業員の行為は、目下演技中ということになるといえますし、また専門性というのもどこかに必ず認められるといえます。ところが、一方の取引当事者である消費者、専門性がないことはもちろん、人間らしい生活を追求するという事が一方で考えられていく反面では、人間性の弱みを十分に備えて取引の場に登場する。例えば、見栄であるとか、勘違いであるとかが備わっているし、同時に商品を認識し識別する能力を、消費者は原則として持っていないということになります。
こういう意味で消費者と事業者の間の取引を全く対等な立場の取引主体間で行われる取引と同じ性格のものとして捉えるのはおかしいのではないか。(3頁〜4頁)

 市民社会が成立してそこで個人の自由ということが社会の共通の認識の基礎に置かれるようになった国々が先進国においては相当数認められるのです。それらの国々では、平等な個人の自由を尊重するということが社会を組み上げていくための最も基本的な原則であるということになります。

 自由が保障されるためには、人間の間の平等という原則が組み合わさっていることが不可欠であることはいうまでもありません。一般市民の変革の努力を通して、平等な市民の間の自由ということが、社会の中で定着してきている国ということで、典型的には市民革命を経験した国ということになります。こういう国においては、市民の自由に対する侵害は反社会的なこととされますし、自由に他人と結んだ約束は責任を持って守るということがはっきりしているのです。こういうような原則は、法律制度の原則という以前に、むしろ社会的なルールとして定着していくということができるのですね。

 こういうことが、一般社会の中で定着していますと、人間の自由の最も基本的なものということができる生活の自由の尊重についての社会的な合意ができあがってくるのです。市民の生活が社会において最も尊重されるべきことである、ということについの合意です。それに対する侵害は、法律的にはともかくとして、社会的な非難を受けるということになるわけです。これが一定の社会的な常識あるいはルールを作り出すことになります。そして、それを反映して法律制度ができあがってきますから、社会的な常識あるいはルールというものが、法律の原則と組み合わされて機能するという状況ができてきているのです。これが西欧先進諸国における社会の展開ということになります。


日本に社会における生活の自由と消費者の権利
 ほかの国では、市民の自由の尊重ということを基礎にした行動とその原則を具体化した法律の働きによって、かなりのところまで是正されてきているわけですね。日本は、世界に最たる訪問販売被害者国であるということになっています。訪問販売は自由に行われており、訪問販売業協会などという協会すらあるわけです。ところが、少なくとも、私が生活していたことのあるドイツ、あるいはその周辺の国では、訪問販売という販売方法は悪いことだという認識が一般に定着しています。勿論、訪問販売禁止法があるわけではありませんが、社会的に定着しているルールとして、人のうちを訪問するときは、必ず事前に約束をしてから訪問するというルールがあり、これは、かなり厳格に守られているということができます。

 市民の間で他人の家に行くときには、事前にちゃんと約束をする。兄弟でも別個に生活しているときにはちゃんと、今度おまえさんのところに行くよ。それじゃあおいで、楽しくお茶を飲もう、というと楽しくお茶を飲もうという約束できる。そうすると、お茶の時間の前、午後の二時頃からやってきて晩飯の前には、必ず帰るということが取り決められたので、両方ともそのつもりでその後の予定を立てるわけですね。そういうところに何度もぶつかってみると、なるほど人の家を訪ねるということは、他人の生活の自由に影響を与えるものだという前提があって、社会的なルールが出来上がって いることに気がついたのです。

 そうすると、突然他人の家を訪ねてきて、他人の家で商売するようなことは、そもそも社会的なルールに反することだという社会的な合意ができているという状態が作り出されることになるのです。 (後略)



 正田先生の講演録は、このような形で非常にわかりやすく消費者の権利について書かれている。私は、日本が社会的なルールを作ってこなかったということは、日本の歴史的事実だとしても、私達法律家が、そのルールを作ろうとしなかったということにこそ、問題があるのではないだろうか、と思う。

 訪問販売法などの立法に際して、消費者側から、種々の意見が出されても、それが、裁判の場で認められることは非常に少ない。

 正田先生は、「消費者が、非専門家であって、さまざまな商品・サービスを購入するが、消費者はその商品・サービスを自分の力で認識することができないのが一般である。」と言われる。このことは、消費者事件では、いつも、被害者側の弁護士が主張する。しかし、それは、入れられない。

 私は、正田先生のこの論考を読ませていただき、「個人としての自由が最大限尊重されるべきだ」というこの原則を、もっと、もっと、裁判の場で主張すべきだと思った。

 私達は、自分の家では、どんな格好で、どんなことをしてもよいはずだ。最も健康によいと思えば、家の中では、裸でいることだって自由なはずだ。しかし、日本では「何時、誰が、訪ねてきても恥ずかしくないようにしなさい」というのが原則だ。この原則が問題なのだ。

 「自分がされては困ることは他人にもしない」これが、個人、個人が、互いの自由を尊重する大原則だと思う。

 消費者の権利を守るという難しい問題は、案外、このような身近で、基本的なことを守るという立場に立って考えることで根本的な解決の道が開かれるのかもしれないと思う。

 「日本人は騙されやすい人間」ではない。個人の基本的な自由を、お互いに尊重するという社会的なルールが確立されていないために、「騙される」ような状況に置かれるのだ。

 あらかじめ本人の了解をとってから、訪ねる、あらかじめ本人の承諾を得てから話をするという、簡単で基本的な社会のルールが確立されていれば、「騙される」というようなことはなくなるのではなかろうか。