2007年1月19日
「いじめ」とは?

サイト掲載: 2007年 1月 20日

 教育再生会議というものが、「いじめ」の定義について、「いじめられた本人(子供)が「いじめ」だと思えば、「いじめ」になるというような意見を出したと報道されている。
 私は、このような考え方は非常に危険だと思う。
 かつて、「同和問題」があった。いや、今でもある。
 同和問題の最大の「キーワード」は「差別」をどう考えるかということだったと思う。
 「差別」について、それは、「差別されたものにしかわからない。従って、差別されたものが、差別だと思えば、それは差別だ」という部落解放同盟の方針が示され、それに従った運動が展開された。
その結果、教育の現場で、すさまじい教育の崩壊が起こったと記憶する。
特に、鮮明な記憶として残っているのは「八鹿高校事件」だった。
多数の教職員が講堂に集められ、生徒達から長時間にわたって暴力を受けた。重大な傷害を受けた教師もいたと記憶する。
この同和問題の後遺症は、ようやく、最近、「タブー」から解放され、大阪・京都・奈良等の地方自治体の問題として報道されるようになった。
「差別」と「いじめ」とは違うという意見もあるだろう。
しかし、個人・個人の考え方はその成長過程においていろいろな影響を受ける。親・兄弟・友達・近所の大人・教師等々から、どのような接し方をされたかによって、そして、それをどう受け止めるかによって、人格形成に大きな違いが出る。
私は、離婚の相談にのったとき、そのことを強く思う。
特に、夫の暴力を離婚の原因として主張する主婦の場合にだ。
夫は、成長過程で、しょっちゅう「暴力」を見て育った。いわゆる「虐待」というようなものではないが、「何か悪いことをした」というような場合、お尻を叩かれるというような形で「有形力の行使」を受けていた家庭で育った。
妻は、どんなことがあっても、絶対に「有形力の行使」はしないという方針の両親に育てられた。
このような夫婦で、何かちょっとしたいさかいがあった。夫は、「言葉では妻に言い負かされてしまう」というような場合、ちょっと「手が出た」。それが、妻の「頬」にあたった。勿論、夫は、「頬」をめがけて手を出した。
特別、怪我をするというようなものではなかった。夫は、妻に暴力を振るったというような認識はなかった。しかし、妻にとっては「天地がひっくり返る」ほどの「暴力」を受けたということになる。
 「いじめ」については、「いじめ」を受けた本人の心の傷をどのようにして直すかという大変、困難で重要な問題があるが、「いじめた側」の子供にも、きちんと「いじめ」について認識し、きちんとした「大人」になって成長してもらわなければならない。
 私は、本当に「会話」「コミニュケーション」が大切だ思う。
 勉強は、勿論大切だ。
 日本では、「会話」「コミニュケーション」ということについて、現在でもあまり具体的な対策が考えられていないように思う。
 「小説」を読むということが、「漫画」を読むということと同じなのかどうか、私にはわからない。
 しかし、小説には、自分が住んでいるとは違う生活の中にいる主人公がいる。
 なぜ、こんなに「ひどい目に遇わされるのか?」ということから、自分では経験していないことを意識として持つことができる。
 現在、テレビや映画で、小説を読むよりも多く、いろいろな別世界の人の経験を「見る」ことができる。しかし、「見る」ということの中だけでは、「主人公」の心の中まで「見る」ことはできない。
 小説は、「主人公」の心の中を、事細かに記述してくれている。
 人間的成長は、恵まれた生活の中で、なんの心配もなく育つという環境では、なかなか身につかないのではないかと思う。
 人にさげすまれ、嫌な思いをさせられ、それを乗り越えるというところから、人間的成長が期待できるのではないだろうか。「獅子は子獅子を千尋の谷から落とす」という諺はそのようなことを言っていると思う。
 日本を代表する知識人が、十分な討議をされて出された「方針」だとしても、それが、現実にどのように実践されるかということになる、いろいろな困難がある。
 先生(教師)が、先生として尊敬される。尊敬されるにふさわしい先生が、自信を持って生徒と対峙できる。というためには、何が必要なのか。
 先生にふさわしい先生とは、どんな先生か?
 やはり、そこにも、先生同士のコミニュケーションによる人間関係の構築が基礎となった信頼が必要だと思う。そのような信頼は、同じ学校の先生同士の中にあるのだろうか。
 「とことん話し合う」、話し合うことには、金もいらない。しかし、時間が必要だ。そのような時間はあるのだろうか。