その昔、標津にも鯨の解体場があった。標津沖で捕鯨して、それを解体
していたのだ。長刀のようなモノで鯨をさばく光景をボクは覚えている。
根室海峡には昔から鯨がいたのだ。やがて捕鯨が行われなくなって、人
々の記憶から鯨のことが消え去っても、鯨はゆうゆうと根室海峡を泳いで
いた。そして、そのことを知るのは漁師だけになっていたのだった。
標津にも鯨ウオッチングの観光船が運航するようになったのは、確か数
年前からだったと思う。観光客がどんどん押し寄せるとまではいかないが、
わりと人気があるようだ。鯨を見る確率がけっこう高いらしい。
実は乗り物酔いするボクは、今まで、その観光船に乗ろうなどとは思っ
てもみなかったのだが、先日仲間同士で飲みに行って、鯨ウオッチングに
行こうじゃないかと言うことになり、思い切ってボクも参加することにし
たのだった。
さて、当日は曇り空、気温も低めで少々肌寒い。秋冬物のライダージャ
ケットを着込んで酔い止めの薬を飲み、準備万端でボクは船に乗り込んだ。
乗客はボクらの4名と子供1人を含めて、全部で12〜13人ぐらい。
そのほとんどが、船内には入らずに、デッキの椅子に座り込んでいる。ど
うやらみんな気合い十分のようだ。
やがて出航となり、港を出ると、少し波があるようで船がゆれる。オマ
ケに強烈に寒い・・。
鯨に出会わないまま、やがて日露中間ラインまでたどり着いた。北海道
と国後島のちょうど中間が事実上の国境となっているのだ。
船はそのラインに沿って北上し、鯨を発見出来ないままやがて折り返し、
港に戻りはじめた。どうやら今日はダメみたいだった。
ボクはぼんやりと北海道側の岸を見つめながら、「鯨ベーコン」のこと
を考えていた。表面を真っ赤に染められた、あのベーコン・・・。最近食
べてない。
「あぁ鯨ベーコン喰いてーなー・・」
そう思っていたときだった。
「居たー!」
デッキに出てボクのすぐ後ろで見張りをしていた女性スタッフの声が船上
に響いた。
乗客に緊張が走り、すぐさま船が停止する。
「1時の方向100m先!」
女性スタッフがそう叫ぶと、乗客の目が一斉にそちらに向く。だが、鯨は
居ない。息継ぎをした後、すぐに海中に潜ったようだ。次に鯨が息をしに
海面に現れそうな場所に見当をつけて、そのあたりを探す。
緊張のまま5分はたっただろうか、鯨は現れない。
「鯨の行方を見失ったようです。船を走らせながらまた別の鯨を探すこと
にします。」
そうアナウンスがあり、船は再び走り出した。
そしてボクは、また鯨ベーコンの、あの赤い色について考えていた。
鯨ベーコンは、あの赤い色が付いてないと気分が出ない。もし、いまど
き流行の「無着色」なんて鯨ベーコンがあったとしたら、ボクはきっと幻
滅し、そんなモノを作ったヤツを軽蔑するだろう。身体に悪そうだろうが
何だろうが、あの赤は鯨ベーコンの命なのだとボクは思う。
「居た居た居た!」
再び女性スタッフの声が船上に響く。
「え、どこどこ?」
ボクがそうたずねると、彼女は
「2時の方向!」
再び船は停められて乗客は必死で鯨を探す。もちろんボクも海面に目を
凝らす。
そんな中、乗客の一人が見張りの女性スタッフと話を始めた。いつの間
にかボクも鯨探しそっちのけで、その話に聞き入ってしまった。
彼女の話によると、5月から6月の初め頃までは、たくさん鯨が居たの
だが、現在はその数が少なくなっているのだそうだ。この海域にシャチが
入ってきていて、鯨が逃げ出したのかもしれないらしかった。
そんな時だった。二人連れの女の子の一人が、
「あ、おった!」
そう叫んだのだ。
「えっ、うっそー、どこどこ?」
そう言って、海面に視線を移したときには、もう遅かった・・・。鯨は海
中に姿を消した後だった。
「時間が来ましたので、港に引き返します。」
そうアナウンスがあり、そして船は走り出して、あっと言う間に港に着い
た。出航から2時間がたっていた。
さて、ボクの仲間に聞いてみると、ボク以外はみんな鯨を見たのだそう
だ。
鯨が少ないという決して好条件ではない時期に、ほんの一瞬ではあった
が、鯨が現れるというのは、やはり根室海峡は鯨ウオッチングに恵まれた
場所なのかもしれない。
ボクがそう思うのは単なる地元びいきかもしれないのだが・・・。
それにしても、仲間の中でただ一人鯨を見損なったボクは惨めだ。日頃
の行いが悪いだの、今日寒いのもボクのせいだなどとさんざん言われた。
まあ、鯨ウオッチングに来て鯨ベーコンの事を考えるような不心得者には、
鯨が姿を現さなくても仕方がないような気もする・・。