彫刻家 斉 藤 一 明 の 世 界
古代の無名の工人達に心ひかれ、路傍の地蔵に足をとめる斉藤一明は遠い土への憧憬を持ち続けていました。
過去からの悠久の時間を無言で見つめる木、土、石。
ふと見上げれば天空に無数の星がまたたいています。
その中で人の『生』は一瞬のできごとですが、それだけに人の一生に、いたいほどの寂しさと、美しさを感じとっていた作者は、誰にも平等にやさしくありたいと願っていました。
1989年の作「いかるが」にはそのような古代への懐かしい思いと、やさしさがこめられています。
このモデルとなったNさんに作者はその両方を感じとりました。
どっしりと大地に座り、やさしく微笑んでいるようです。
そして目は遠く宇宙の彼方に向けられているのでしょう。
「土のぬくもり」をいつも大切にしていた作者が、その思いをNさんとの出会いによって形にすることができました。
この作品は1990年第5回北の彫刻展に出品され、その後、厚岸町に寄贈されました。
日本の仏教彫刻をこよなく愛していた斉藤一明は、彫刻の原点であるエジプトから、インド、中国、そして日本へと渡る彫刻の道を訪ねています。
「いかるが」のモデルとなったNさんとの出会いの2年後、彼はインド旅行をしています。
そして、そのとき得た印象をもとに、「あだしの」を作り始めました。
釧路市買い上げ作品となった「まほろば」とともに、これら和名の作品群には作者の特別な思いがあります。
それは、はるばる遠くエジプトから気の遠くなるほどの時間をかけて到達した日本の地を確かめておきたかったのです。
仏像の華奢で繊細な作りへと向かうのではなく、細部を省略し、荒削りなフォルムの中に土のぬくもりと生命の根源を感じさせる作品となった「あだしの」シリーズの最後にあたるこの作品は2000年第55回記念全道展に出品され、現在は標茶町役場に展示されています。
宇宙の時間に比べると、人の一生は一瞬の出来事に過ぎません。
しかし、まばたきのような短い時間になんと多様な出来事があり、多彩な出会いがあることでしょうか。
1982年のこの作品はマサコさんという若い女性のモデルとの出会いから生まれました。
今まさに広い世界に飛び立とうとする若い女性。
未来にまっすぐ向かって立つ姿は輝いていました。
それはまた作者の内なる思いでもありました。
1961年から2000年までの作家活動のちょうど真ん中に位置するこの作品は、期せずして作者自身が半具象的な造形へと向かう転換点となり、のちの「凍土」シリーズの原型でもあります。
一片の飾りも、一切のポーズも必要としない若い時間の一瞬の輝きを表現する造形に無駄がありません。
この作品は1984年第2回北の彫刻展に、そしてまた1988年釧路市内での個展「斎藤一明彫刻展」に出品されました。
1991年のインド旅行で、斉藤一明は長身痩躯の人々を見て新鮮な驚きを持って帰国しました。
インド大陸デカン高原には生まれながらにして彫刻的な肉体を持った人々が暮らしていたのです。
彼が影響を受けた彫刻家にジャコメッティがいます。
その作品は人物を細長い棒のように表現しています。
一切の無駄を省くと人物はそのように見えるというのです。
そのものの容姿をした人々を実際に見た驚き。
それを表現する作品群は「デカン」と名づけられ、1998年まで少しずつ形を変えながら作り続けられました。
それらは彼の造形の一つの重要な型となり、「道標」や「潮流」と名づけられたシリーズ、さらには釧路市都市景観賞ブロンズ像「爽」もまたその型から作られました。
このシリーズは全道展、北の彫刻展に相次いで出品され、そして「デカン95」は釧路町に、「デカン97」は清水町に、「デカン98」は標津町にそれぞれ寄贈されました。
●清水町文化センター
089-0112 北海道上川郡清水町南3条3丁目
斉藤一明が「いかるが」、「あだしの」、「まほろば」などの和名に寄せる思いは格別なものがあり、彼の作品の流れの中で、ときどきふと思い出したように現れ、また静かに作者の胸の奥深くに沈んでいきました。
「あだしの」シリーズはこの作品のモデルとなったWさんとの出会いから始まります。
当時まだ学生だったWさんには古代の空気を感じさせるよりも、むしろ現代的な強い個性の持主でした。
しかし、作者はモデル自身も気づかない素朴な土のぬくもりを直感し、形にしようとしました。
型から抜け出ようとするモデルの個性とのせめぎ合い。
作者のいつもの頭部の形に納められてはいるものの、今にも飛び出しそうなマグマの動きが感じられます。
この作品は1981年、釧路市民文化会館での「山田北翠氏との二人展」に出品されました。
作者の「幾千年の遠い日への憧憬」はYさんとの出会いによって、また一つの造形となりました。
1985年のこの作品に代表される「凍土」シリーズです。
人間がその歴史に何を重ね得たのだろうかと作者は疑い、科学の恩恵は人たちを欲望の中にどっぷりとつからせ、 気がつけば自己権利の主張ばかりがひとり歩きを始めているのではないかと考え、胸を痛めるのでした。
人間の世界からいつの間にか人自身が押しのけられている現実。
遠い日、歴史が生まれようとしていた頃へ。
作者の遥かな憧憬はますますつのりました。
モデルとなったYさんは作者の胸の奥深くで渦巻く暗雲に一筋の希望の光を投げかけたようです。
あるいは凍土をやがて溶かしてくれる暖かい太陽であったかもしれません。
この作品は1988年に「第4回北の彫刻展」と釧路市での「個展」に出品されました。
モデルとなったメリーさんと作者の出会いもまた運命的なものがありました。
異国の地にあっても、みずからの信条を守り続ける強い意志。
しかし決して相手に押し付けることのない柔らかい配慮。それは作者自身が求めていた姿でもありました。
静かに瞑想するように座り、時がたてば持参した本に目をおとすモデルを前にして、作者は「首作り」の原点に戻らざるを得ない自分に気づいたのです。
初心を忘れてはいけない。
作者はメリーさんの頭部を数点作りましたが、どれも造形的な方向へは進まず、常にありのままの形を求めています。
制作がすんでも続く心の交流。斉藤一明にとって、モデルは作品作りの単なる手段ではありませんでした。
メリーさんの訪問をいつも楽しみにしていた作者は、人との出会いを大切にする人でした。
この作品は1986年「第3回北の彫刻展」に出品されました。
斉藤一明にとって、1990年の加藤達郎氏との出会いは決定的な意味を持っています。
このときを境に作者はまったく質の違う作品を生み出すことになったからです。
加藤氏は「私は長年、柔道をやっていたので、対戦相手と試合前に目を合わせたときから始まるお互いの気がぶつかりあう雰囲気が芸術の世界にもあることを知った」と述懐しています。
作者もまた必死でした。
しかし、お互いが何の気負いもなく、そのままの自分で向き合ったとき、すべての装飾と説明が消え、本質が形となったのです。
そしてさらに、作者がモデルから得たイメージを完全に消化できたとき、半具象的な造形としては極限とも言える形にまで到達し、そこに力強いメッセージを込められた作品群がどんどん生まれ出てきました。
それが、これまでの総決算とも言うべき「潮流」と「刻」のシリーズになります。
そのシリーズを完成させること、それが作者みずからを励まし続ける原動力となりました。
ただし、完成となったかどうかは作者が亡くなった今、誰もわかりません。
加藤達郎氏との出会いから得たイメージは「潮流」となってさらに高みに向かって一気に流れ出ていきました。
過酷な環境に耐え、自己を律しつつ奉仕する姿は、こうならざるを得ないという造形へ進んでいったようです。
たえずフロンティアを求め続ける体制の中で、失われてゆく人間性におののきながらも、人は豊かさの実感にひたりきる・・・これは作者の言葉です。
そのような世界にあって、やがて頭部だけで全身の存在を表すことになった「潮流」と「刻」は何と無言のうちに不変なるものの姿を雄弁に物語っていることでしょうか。
これらの作品は、1992年「第6回北の彫刻展」そして、1993年の札幌における「個展」に出品され、2000年に中標津町に寄贈されました。
それらは作者が特別な想いを寄せていた総合文化会館『しるべっと』に展示されています。
「潮流」シリーズの1993年作「潮流 93」は「第54回全道展」(1999年)に出品され、音別町に寄贈されました。
音別町「ふれあい図書館」2階に「潮流-93」が展示されています。
「潮流」シリーズの「潮流 98」は作者にとって異例なことに2体(潮流 98-Aと潮流 98-B)で1作品「ふたり」と題され、「第55回全道展」(2000年)に出品されました。
白糠町に寄贈されることになり、2000年9月8日に白糠町長棚野氏に引き渡されました。
町立「茶路小中学校」に展示されています。
1994年、鶴居村の佐々木建設が創業30周年を記念して村に寄付した基金により、ブロンズ像の建立が斉藤一明氏に依頼されました。
像は先人たちの功績を称え、後世に受け継ぐ証としたもので、その歴史を刻む「とき」を象徴する「刻」のタイトルとなりました。
5体の像はカシオペア座の星の位置に置かれ、永遠の時間を主題としています。
また、より
自然に近づけるために、台座は設けず役場庁舎前庭の地面に直接立っています。
その影をも作品の一部として取り込むように、季節の移ろいの中で「とき」を刻んでいます。
なお、この作品は1993年に3体で「刻 I、II、III」として作られ、札幌市での個展に出品されたものが原型となっています。
そして、その3体の原型は阿寒町に寄贈されました。
●朋、潮流、刻などのモデルとなった医師・加藤達郎先生は2020年7月永眠されました。
102歳。
僻地医療、高齢者医療に捧げられた生涯でした。
謹んでご冥福を祈ります。
1987年、モデルのIさんとの出会いから生まれたこの作品は「まほろば」と名付けられました。
それは「すぐれたよいところ」の意で、古事記の「大和は国のまほろば・・・たなづく青垣山こもれる。大和しうるはし」にちなんでいます。
作者は奈良の大和路を巡りながら、古代の人々が同じ道をたどったことに感動し、遠い大和への憧憬と、地層下への問いかけをこの作品のテーマとしています。
それはまた、破滅型とも言える現代文明にあって、ゆったりとした時間の流れにあった古(いにしえ)の人々との対話を大切にしたいという作者の願いでもあります。
この作品は1989年に釧路市買い上げとなり、釧路市民文化会館ホールに展示されています。
多くの人の目にふれながら、決して威圧的な存在感を示すことなく、静かにそこにあり、近づく人はそれとなく手を触れています。
鼻のてっぺんなどはすっかり変色していますが、それは作者の望むところであるでしょう。
2000年10月10日、作者が亡くなる3日前、この作品は釧路工業高等専門学校に寄贈され、竣工なったばかりの「テクノセンター」内に展示されました。
タイトルは同センター長の東藤勇教授により「冴」と名付けられました。
シンプルな造形から、若い技術者たちの冴え渡るアイデアと、そして創造に対する臆することのないチャレンジ精神が伝わってきます。
これは1972年という非常に早い時期の作品で、作者はさかんに頭部を作っていた頃の一つです。
実際の人物に忠実な作りが多くある中で、作者は実験的にデフォルメした頭部もいくつか作っています。
この作品ではモジリアーニ風な造形を試し、すっきりと無駄を省いた完成度の高いものになっています。
特にモデルはありませんが、一直線にのびた鼻梁の下に唇をちょっとすぼめた若者の姿が現れています。
作者自身も忘れかけていた作品であり、それが技術者たちの目にとまり、ふさわしい命名がされたと作者はたいへん喜んでいました。
なお、釧路工業高等専門学校には「刻のエスキース」も寄贈されています。