Mozart con grazia > 年代記 > 1787年 |
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1787年31歳 |
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11日、プラハ到着。これが第1回のプラハ旅行。
15日、プラハからフォン・ジャカンへ
親愛なる友よ、親愛なるヒンキチホンキイ! これは君の名前だ。 覚えておいてくれ。僕らは旅の間みんなで自分自身の名前を作った。 僕はプンキチチチ。妻はシャブラ・プムファ、愛犬ガウカールはシャマヌッキーだ。
19日、交響曲第38番「プラハ」をプラハの国立劇場でモーツァルト自身が指揮して初演。
22日、モーツァルトは「フィガロ」を指揮。
1月30日、ハッツフェルト伯爵の死。 彼は優れたヴァイオリニストだったので、昨年知り合ってすぐ「イドメネオ」K.366のためのシェーナ(劇唱)「もういいの、私は全てを聞いた」K.490のヴァイオリン独奏パートをかき、3月13日のアウエルスベルク侯爵邸での上演に使ったという。 その後「ハイドン四重奏曲」を演奏した親しい仲だった。
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8日、興業師ボンディーニからオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の作曲を依頼され、プラハを離れた。
12日、ウィーンへ帰る。
プラハで「フィガロの結婚」が大ヒットしていたので、招かれてプラハを訪問したモーツァルトは感激して帰って来たが、ウィーンは冷たかった。
なお、モーツァルトはプラハに1787年から死の1791年まで4回訪れている。
ついでながら、彼の死(1791年12月5日)に際し、真っ先に盛大な追悼ミサをあげた(12月14日)のはプラハの人々だった。
23日、ナンシー・ストレース嬢の告別演奏会。 彼女が「汝をいかに忘れえん。恐れるな、愛する人よ」K.505を歌い、モーツァルトがオーケストラと協奏するピアノを弾いた。 このときナンシー21歳。 この頃モーツァルトは英語の勉強をしていたらしい。 イギリスへの旅行を考えていたせいか。
この日の演奏でナンシーは4000フローリンにもなる収入を得たという。 それに憤慨してフランツ・クラッターは次のような警告文を書いた。
下手な演奏会でなげやりにアリアを2〜3曲歌う外国人を争って求め、モーツァルトのような優れた自国の芸術家の演奏会にはまったく収入がない。 こんな祖国に何が期待できるのか。
さらにヨーゼフ・ハイドンも次のような手紙を書き残している。
あの偉大なモーツァルトと肩を並べられる人はいません。 プラハはこの貴重な人物をしっかりと掴まえておくべきです。 それだけの報酬を払うべきです。 この貴重な人物がまだどこの宮廷にも雇われていないことに私は腹立たしい思いでいます。
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18日、「後宮からの逃走」初演でオスミン役だったルドウィヒ・フィッシャーのために
を作曲。23日、フォン・ジャカンのために
を作曲。 彼の狭い音域を考えて作られてあるという。
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私は何ごとにも最悪のことを考えるのが習慣になっています。 死は私達の一生の真の最終目標なのですから、人間のこの真の最善の友と親しくなって、その姿が何も恐ろしいものでなくなり、私にはむしろ多くの安らぎと慰めを与えるものとなっています。 そして神様が私に、死が真の幸福の鍵だと知る機会を幸いにも恵んで下さったことに感謝しています。 私はまだこんなに若いのですが、もしかしたら明日はもうこの世にいないのではないかと、考えずに床につくことは一度もありません。 それでいて、私を知っている人は誰も、私の交際で不機嫌だったり憂欝だったりすると言う者はありません。
7日〜20日、16歳のベートーヴェンがウィーンを訪れた。 この間にモーツァルトと出会ったと言われる。
19日、彼の器楽曲中で最大規模(1149小節)となる
24日、
を作曲。
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16日以降、
を作曲。18日、
20日、
23日、
26日、ジャカン家の一室で大急ぎで、
を作曲。 女流詩人ガブリエーレ・フォン・バウムベルクの詩。 彼女の実際の体験がこの歌のもとになっているという。5月28日、父レオポルト・モーツァルトの死。 墓はザルツブルクの聖セバスティアン教会の墓地にある。 ヴォルフガングは父の死の床にかけつけず、また埋葬にも立ち会わなかった。
そこには皮肉なことに、コンスタンツェ(後のニッセン夫人)も共に眠っている。
右の写真の中央にある大きな墓は「コンスタンツェ・フォン・ニッセン」のもの。
その右下の小さな石版が父レオポルトの墓標。
なお、母とモーツァルト自身の墓は残らなかった。また、姉ナンネルは同じザルツブルクでも別のところ、聖ペテロ教会の墓地に眠っている。
父の死の知らせは多分ディッポルトから届けられたと思われるが、それは残っていない。 姉が知らせてくれなかったことについて、モーツァルトは姉に宛てた別の手紙でやんわりと非難している。 二人の関係は既に冷たくなっていたので、当然のことでもある。
29日、ジャカンの妹フランチェスカのために
5月末、フォン・ジャカンへの手紙
最愛の友よ、エクスナーさんに明日9時に来て、妻に瀉血を施してくれるように伝えてくれないか。 君の「アミント」と賛美歌を同封する。 ソナタは妹さんに渡してほしい。 少し難しいので、すぐに取り掛かるようにと言ってくれ。 さようなら、君の真の友、モーツァルト「アミント」と賛美歌とはジャカンの作曲。 彼の妹フランチェスカはモーツァルトのピアノの弟子だった。追伸、お知らせするが、家に帰ると、最愛の父が死んだことを知らされた。僕の心境を察してくれるだろう!
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僕らの最愛の父が急逝したという知らせでどんなに僕が悲しく思っているか容易に察してくれるでしょう。 今のところウィーンをたって、姉さんを抱擁するすることがとてもできません。 お父さんの遺産を競売に付するということでは賛成します。 ただ、僕もいくらか選択できるように、前もって目録を見たいものです。 しかしディッポルトさんが言うようにお父さんの遺言があるのなら、僕はこの先の処置ができるように、その配分を知る必要があります。 いや、その正確な写しがあればと思うだけです。
4日、むく鳥シュタールが死んだ。 モーツァルトは「知らなければならない、死の味を。彼を思い出すたびに、私の心は血を流す」と書き記した。
14日、
を作曲。 表題はモーツァルト自身による。 のちに作曲家ヒュッテンブレンナーが「村の音楽家の六重奏曲」という呼称を与えた。 曲の形態はシンフォニーあるいはディヴェルティメントだが、平行5度の使用など作曲上の決まりを知らない素人作曲家を皮肉った間違いだらけの音楽。 奏者たちは勝手な調子で弾きまくり、大混乱のまま収拾もつかず終る。父の死の直後に作曲されたこの奇妙な曲は、父への屈折した形の追悼のオマージュだったのか。 ただしタイソンによれば、1785年末から書き始めている。 そして14日付でモーツァルトは自作カタログに書き入れた。 フィナーレはアトウッドが練習帳に87年8月13日に書きこんだフーガが使われている。
音符を並べるにはいくつもの規則があった。 それらは19世紀の終りには全面的に解体してしまったが、モーツァルトの時代には厳密に守らなければならなかった。 たとえば平行5度は禁止という規則は基礎的ルールで、それを知らない者は作曲職人として認めてもらえなかった。 彼が8歳のときに書いたソナタにはその平行5度が使われていて、印刷後に気づいた父レオポルトは大慌てで修正したことがあるという。
ただしJ.S.バッハはそれが快く響く時には平行5度も8度も用いた。 <参考>J.N.フォルケル「バッハの生涯と芸術」柴田治三郎訳(岩波文庫)p.94
24日、2つの歌曲
7月4日頃、
を作曲。 ガウリマウリとは弟子のフライシュテットラーにつけたあだ名で、ウィーン方言で「馬の顔」という意味。
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24日、最後のピアノとヴァイオリンのためのソナタとなる
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今日、僕はこの気高い人物にして、最愛の友であり、命を救ってくれた人を、まったく思いもかけず、死によって失い、本当に不幸だ。 安らかであれ! でも、僕や彼をよく知っていたみんなは、決して心安らぐことはない。 僕たちが幸福にも、よりよい世界で、再びもう決して離ればなれになることなく、彼と会えるまでは。
23〜28日、ザルツブルクで、父の遺品が競売に付された。 それによってモーツァルトは1000フローリンを得た。
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夏〜秋(ウィーン、プラハ)、プラハの歌劇団の支配人からの依頼で、ダ・ポンテ詞による
初演の2日前になっても序曲を書こうとしないので、業を煮やした劇場支配人たちは、ドゥシェク夫人の別荘に歌手たちをつれて行き、一騒ぎした後、モーツァルトを音楽室に閉じ込めてしまったという。 こうして、序曲は初演の前の晩に書き上げられた。その序曲の最初のアンダンテは、騎士長の石像が来訪する場面から取られ、ドン・ジョヴァンニの宿命を暗示する。 この作品を完成させたヴィラ・ベルトラムカ(Villa Bertramka 右の写真)というプラハ郊外にある屋敷は、1784年からドゥーシェク夫人の所有となり、現在はモーツァルト記念館として公開されている。
29日、プラハで「ドン・ジョヴァンニ」の初演。
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4日、プラハからフォン・ジャカンへ
10月29日に「ドン・ジョヴァンニ」が上演され、大喝采を受けた。 昨日は4回目の上演がなされた。しかも収入は僕がもらえる。 12日か13日にここをたとうと考えている。帰ったらすぐに例のアリアを歌えるように渡してあげよう。 ここの人達は手を尽くして僕を説得し、数ヶ月滞在を延ばしてオペラをもう1つ書かせようとしている。 その申し出はどんなにか嬉しいが、引き受けることができない。
アリアとは翌年末のK.Anh.245 (621a)。 ウィーンで得られなかった成功をプラハでは与えてくれるというのに、モーツァルトはそこに留まらなかった。 オカールは「僕はあまりにも他の人々のものになり、自分自身のものではなくなってしまう」と書いた10月15日の手紙を引用し、その理由を「作曲し内省するためには孤独が必要だった」と説明している。 それだけでなく、やはり妻がいて、ジャカンのようなふざけ合う友人もいるウィーンが恋しかったのだろう。 そのウィーンに戻ると、作曲家グルックが世を去り、彼は宮廷音楽家の称号を与えられた。 しかし、年俸はグルックの半分にも満たなかった。そして「ドン・ジョヴァンニ」はほとんど上演されず、どん底の生活に追い込まれていった。
6日、プラハで2つの歌曲
13日、プラハ発。
11月15日、クリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714〜)死。
17日、ウィーン着。
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11日、
27日、長女テレージア誕生。(翌年6月に死亡)
この年の作品かもしれないもの以下がある。
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